射ちコロず。、檜村サクラ、ピエール・ユイグ、神は局部に宿る、六本木クロッシング

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射ちコロず。 『恋しよーよ?(仮)展』

■期間:2016.6.27 – 2016.7.3
■場所:デザインフェスタギャラリー
■内容
東京藝術大学絵画科油画専攻1年で結成された
阿部 華帆(あべ かほ)
佐藤 はなえ(さとう はなえ)
永島 悠伊(ながしま ゆい)
3人のグループ展です
性格も絵もてんでバラバラな私たちがいかに恋愛を作品に込めるのか?!

藝大油画一年生3人組の展示。布施琳太郎くんが絵画棟1階のYuga Galleryで展覧会をしているときに、一年生50人強が詰め込まれた通称「タコアトリエ」にふらっと立ち寄って、彼女たちと知り合った。去年まで油画一年生は取手キャンパスにアトリエが与えられていたが、今年から上野キャンパスに移動になった。取手は遠すぎるので、それ自体はよいことだと思うのだが、計画だったことではなかったらしく、なんと2部屋に50人強が押し込まれる事態が発生した。その様子を見学したわたしは、「かわいそうな一年生」とツイートしてしまった。それを見た彼女たちに「かわいそうと言わないで下さい。」とリプライされてしまい反省した。そして、反省の意味も込めて展示を見に行った次第である。

さて、作品について。まあ、仕方ないと言えば仕方ないのだが、悪い意味で学生らしい展示だった。「学生らしい」とか「見方が分からない」という言葉を頻発する批評家や教授がいるので、わたしはあまりこの言葉を使いたくないのだが、あえて使ってみた。しかし、わたしは彼らとは違う。定義を与えておこう。「学生らしい」とは、「見せ方を知らない」あるいは「観賞者不在」の作品である。わたしが専門的に見ている作品は視覚芸術である。そうである以上、見られることを想定されていない作品は、批評的視座の範疇にはない。こう言い換えてみよう。観賞者の視線を巻き込み、跳ね返す作品でなければ、視覚芸術ではない。ベタに言えば、「見る/見られる」の関係性が不可欠であるということだ。

「性格も絵もてんでバラバラな私たちがいかに恋愛を作品に込めるのか?!」
このステートメントに彼女たちの「学生らしさ」が凝縮されている。だから、もしわたしが彼女たちのことを知らなくて、このステートメントを見たなら、絶対に展示を見に行かないだろう。なぜなら、そこにはわたしたちは存在できないからだ。彼女たちと恋愛したいのであれば見に行くだろうが。そう、逆に言えば、このステートメントを読んで、作品を見て、感動なんかしちゃってる人は、彼女たちに恋をしているのであって、作品には一瞥もくれてないのだ。

しかし、こうした批判もありふれたものだろう。だから、一言で、彼女たちへの疑問を呈しておきたい。

君たちは、友だちが欲しいのか。
あるいは、恋人が欲しいのか。
それとも、作品を見て欲しいのか。

手に入れることができることよりも、手に入れることができないことを知る場所。それが大学だと思う。がんばって勉強してね。

さて、このまま作品の話がなくてはさすがに意味がない気がするので、一点だけ触れておきたい。雑然とした展示会場には2点、自画像らしきペインティングがあった。これには、わたしも心を動かされた。それは、郷愁と呼ぶに相応しいものだ。しかし、その郷愁は、わたし自身の体験に基づくものではない。大芸術家たちが描いた若き日の自画像の数々。その稚拙さと直向きさ。彼女も、彼も、若かった。観賞者たるわたしを圧倒する作品を制作した彼らが失ってしまったもの。彼女たちの作品にもまた、いつの日か失われるであろう、苦悩がある。絶望がある。

世界に絶望していない人間はアートを続けることができない。あのペインティングに描かれた彼女が、これからも世界に絶望し続けることを願う。

PS.
射ちコロず。 というグループ名、めっちゃ好きです。


檜村サクラ 『make my blood and flesh』

■期間:2016.6.27 – 2016.6.30
■場所:デザインフェスタギャラリー
■展示コンセプト
油絵の具は私の皮膚にもっともよく馴染むメディウムです。指で直に触って描いて、油絵の具が皮脂と混じって染み込んだキャンバスはまるで第2の皮膚のようです。今回その油絵の具で日用品に皮膚のドローイングを施し、全てを私の身体に馴染ませ、全てを私の身体の一部にしていく試みをしています。
「make my blood and flesh」私の身体を成せ。あなたの個としての存在に関わらず、あなたは私の一部になるのです。この暴力的なまでの愛こそ、最後の救済となるでしょう。

彼女も藝大油画の一年生らしい。まず一年生で個展を開催する行動力を評価したい。一時期、作品を見せることを嫌う傾向が強くなったように感じていたが、最近は不埒なまでにみんな展示をしている。素晴らしい。どんどん失敗して恥をかいてほしい。アーティストは恥をかき続ける(描き続ける?)人生だ。

しかし、内容としては、上記の射ちコロず。 と同じだ。観賞者不在。安全なマスターベーションだと思いました。粘膜の摩擦にまで言及されると少しは前進すると思いますが、それもまた「ベタベタ」なので、茨の道です。絵の具というメディウムや皮膚や身体や暴力や愛や救済については、先人たちが山程議論しています。さすがにそれを全部スルーするわけにはいきません。以下に幾つか参考文献を挙げておきますので、参考にしてみてください。ちなみに、ぼくの「「いい絵」試論 or “Accessory Painting”」も関係あるから参考にしてね。

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ピエール・ユイグ「Untilled Host」

エスパス ルイ・ヴィトン東京
2016年06月25日 ~ 2017年01月09日

映像2点。映像作品のお手本のような作品でした。現代アートの主戦場は、アートフェアや国際展です。どれも規模がめちゃくちゃにデカイ。行ったことがある人は分かると思いますが、アート・バーゼルやヴェネチア・ビエンナーレでは、旅行者が全ての作品を見るのはほぼ不可能です。そうした主戦場での1作品の鑑賞時間は5秒と言われています。そして、ユイグの作品は5秒でコンセプトを理解できる作品になっています。特に、彼のコンポジションは素晴らしい。とても絵画的な映像になっています。どこを切り取っても画(え)として完成されている。そういう作品です。

ただし、それは模範解答でしかありません。それらしいことを言うことはできるでしょう。しかし、少なくともわたしは、その欲望を喚起されませんでした。うまいな、さすがだな、売れるな、そういう感想です。勉強にはなりました。

やはり、舞台装置のような、観賞者を体験に巻き込む作品が、ユイグの本領だと思います。

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『神は局部に宿る』都築響一 presents エロトピア・ジャパン

■期間: 2016.06.11 Sat – 07.31 Sun
■場所:アツコバルー

最近、アジア最強のアングラ・ライター、ケロッピー前田師匠にかわいがって頂いているので、あまり見に行かないような展示ですが、行ってきました。想像力としては大変おもしろいのですが、展示としては全くダメでした。

友人が「田舎はエンタメがセックスしかないという真偽不明の情報得たことがあるので、やや偏ったイメージ持ってます。」と言っていたのだが、これは本当だと思う。ぼくは田舎出身なので分かります。そうです。田舎はやることありません。セックスって暇じゃないと馬鹿らしくてできないですよね。あるいは、忙しさを紛らすためにするとか。別に目的はなくていいんです(いや、生物的な目的はあります)が、逆に言えば、目的がないからこそセックスとかできるんですよね。ラブホテルとかも意味不明です。その壮大な無駄に人間を見ることはとても理に適っている。展示にはフェチズムも含まれているのですが、それも確かに面白い。しかし、どうもぼくには既知のことのように思えて仕方なかった。ただし、性的な想像力や生身の身体を取り締まろうとする権力に対する対抗だと、深読みするならば、100%支持します。

さて、展示についてですが、ぼくが美術を見すぎているんでしょうね。Tokyo Art Beatで場所を検索して行ったものだから、完全に美術モードになっていました。そのため、もっとこう展示すればいいのに、オレならこうする、と不必要なことばかり考えてしまいました。こういう展示には誰かと一緒に行くべきですね。そういえば、ぼくはオープンすぐに入場したのですが、人がいっぱいいました。みんなエロいですね。いいことだと思います。あるいは、普段はそのエロさを抑圧されているのでしょうか。だとしたら、よくないですね。無理せず、適当に、エロく生きればいいと思います。

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六本木クロッシング

■期間:2016年3月26日(土)-7月10日(日)
■場所:森美術館

森美術館の年間パスを持っているので、「風景地獄」を見る前に行ってきました。3回目です。細かく書いていたらきりがないので、少しずつ言及していきます。

毛利悠子は美の人ですね。徹底的に美のみを追求して欲しいと思います。

百瀬文の二人の祖母がお互いのことを牽制しあう映像作品。笑ってしまうのですが、同時に恐怖に震え上がります。彼女は嫌がるかもしれませんが、フェミニズム・アートがあるとしたら、その分野のトップランナーは彼女です。あれほど、居心地の悪い鑑賞体験を作れる若手作家は世界でも希なのではないかと思います。ぼくはアートについてはドMなので、また震え上がりたいです。

ナイル・ケティングの作品は何か格好つけてる感じがして嫌いだったんです。でも、先日の個展で山本現代のスタッフの方から説明を受けてすごくよく分かりました。彼の作品はオカルトの想像力を駆使しているんですね。正誤を脱臼させている、とでも言いましょうか。それは、正義への異議申し立てでもあります。だから、わたしたちは彼を真剣に捉えてはいけません。ドリフのコントを見る気持ちで見ましょう。「んなわけねえだろ!」とツッコミを入れたとき、はじめて、わたしたちの目の前に彼の作品が現れます。ひとまず、それを真実と呼んでおきたいと思います。

他にもいい作品がたくさんありましたが、ここでは言及しません。とてもよくできた展示だったのですが、その分、自分が言及しなくてもいいな、と思わせてしまうところに、六本木クロッシングの限界もあると思いました。