梅沢和木、須賀悠介、永田康祐、山形一生

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梅沢和木個展「画像の紙々」

会期:2016年8月26日(金) – 9月7日(水) ※会期中無休
会場:ゲンロン カオス*ラウンジ五反田アトリエ
http://chaosxlounge.com/wp/archives/1850

梅沢和木 個展『画像の紙々』

梅沢和木、通称梅ラボくんが制作のためにPCに蓄積しているドローイング的作品を中心にした展示です。梅ラボくんが所属しているグループ・カオス*ラウンジの五反田アトリエでの展示とあってアットホームな雰囲気でした。

ぼくはかなり早い時点で梅ラボくんの作品を見ていました。かつてARTFAIR TOKYOのサテライトのような形で2回だけ開催された101 TOKYO Contemporary Art Fairで2009年に見ています。[★1]101 TOKYO Contemporary Art Fair 2009
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2009/04/101tokyo-2009.html
その時点でのぼくの印象は水平方向のストロークでした。画面を謎るように(現在ならそれは、iPhoneの画面を撫でる行為だったと言えます。)画像をストローク=スクロールさせて行く。それは、辻惟雄先生から村上隆さんに引き継がれた日本的空間認識、つまりレイヤーが重ねられた空間認識を前提とした上で、そのレイヤーの隙間を埋めていく作業だったのだと理解していました。それは現代の視覚について極めてラディカルな挑戦でした。だから、ぼくはそのときの展示の空間まで鮮明に覚えています。

ただ、当時すでにちょろちょろとアート界隈に出入りし始めていたぼくは、雰囲気的にカオス*ラウンジと敵対するような立場になっていきました。それは単純に0000(おーふぉー)というグループをぼくが応援していたからなんとなく敵対しているのかなという雰囲気になっていただけなのですが、その後の関係性には決定的な影響を今でも残しているように思います。みんな若かったので血気盛んだったということですかね。今なら笑い話にできるのですが、ぼくも、梅ラボくんを含むカオス*ラウンジのメンバーも、なんとなく警戒心があったように思います。

実際、梅ラボくんにメールインタビューをした際には、かなり熾烈な?やりとりをしました。[★2]梅沢和木「エクストリームAR画像コア」インタビュー
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2013/10/diesel-umezawa-kazuki-extreme-ar-gazo-core.html
ぼくの質問に対してとても丁寧に応えてくれたのですが、いくつかのカットされた質問では、ぼくの偏見についてかなり強く批判されたことを覚えています。前述した水平方向のストロークについても上手く伝えることができなかったという点でもちょっと悔いが残っています。(つまりまたインタビューしてみたいと思っています。)

と、昔話になってしまいました。これ、ぼくが過剰に反応しているように見えるかもしれないのですが、たぶん本当にすごく警戒されていたんだと思います。ぼくは以前から素直にツイートなどしていたつもりだったのですが、最近、「カッコ付きの「画像」をテーマにした作品は梅ラボと二艘木洋行の二人がぶっちぎり」ということをツイートしたら、それを見た梅ラボくんに意外だった、みたいなことを言われて、オレ前からめっちゃ梅ラボ作品好きだよ!と思ったのでした。

展示と関係ないことばかり書いてしまいましたが、今回の展示ではそんな梅ラボくんの欲望をストレートな形で見ることができました。今回もイベントとして企画されていましたが、彼らは「お絵かきオフ」を重視しています。ぼくはそれがなぜなのか全然分かっていなかったのですが、要するに画像の本質をつかむためには、お絵かき的な「手遊び」が重要なんですね。「手遊び」によって初めて、画像の質感をつかむことができるようになる。ぼくは、iPhoneに入っている画像アプリもほとんどないし、アドビーソフトもほとんど使えないので、彼らが画像に対して制作の場面でいかに向き合っているのかが分からなかったのですが、今回の展示でなんとなく見えたように思います。そこには、ここでは詳しく書くと問題のある画像もあるのですが、その実写の画像をも手遊びのネタとして扱うことで、作品の素材にできるんですね。

つまり、彼にとって画像を使ったドローイング=手遊びは、ストロークのための絵の具を作る作業なのだと思います。考えてみれば、画面上で画像をすりすりと横滑りさせる作業と、顔料をすり鉢でシャリシャリと砕く作業はとても似ています。画像という顔料を作る行為とその時間も作品の重要な一部です。そうした私秘的行為の中から初めて神々への通路が開けるのかもしれません。だから、今回の展示でいくつかあった「ペインティング作品」は梅ラボくんの自室が場面に選択されていました。そして、その風景は、iPhoneをなぞる指の痕跡のごときストロークで、ぐにゃりと歪められていたのでした。

P.S.
カオス*ラウンジ宣言2010っていまでもすごく重要なことを突いていると思うんです。若い子も読んでくれているようなので、以下にリンクを貼っておきます。

 


須賀悠介、永田康祐、山形一生 “SEEING THINGS”

会期 : 2016.09.02 ‒ 15
会場:Tokyo Arts Gallery
http://seeingthings.xyz/

Yusuke SUGA, Kosuke NAGATA, Issei YAMAGATA "seeing things"

ぼくの友人はみんな知ってるんですが、ぼくはテクノロジー好きなんです。梅ラボくんのところで書いたようにアドビーソフトとか使えないんですが、本当のところやりはじめたらはまってしまうから触らないようにしているというのもあります。(めんどくさいってのもあるんですが。)めっちゃ小さい頃は宇宙の研究をしたいと思っていたし、高校までは理系だったし、SFCに入学したのも数学はまあ得意だから経済学か金融工学でもやろうかなぁーっていうノリだったんです。選択を誤ったのか、正しかったのかは分かりませんが、今はバリバリ文系的な分野にいるわけですが、科学とアートってそもそも同じでしょ、という感覚でいます。だから、3DCGをテーマにした展示”SEEING THINGS”も違和感なく受け入れられます。でも、そういう発想はやはり男の子っぽいのかもしれません。オープニングパーティーには女性は2人くらいしか来ていませんでした。打ち上げも10人くらいで行ったのですが、全員男でした。そういう違いってあるんですかね。PC的に正しくないということは理解した上で、育ってきた環境が違うから、なんて話もあるのかなとか考えてみたりもしましたが、やっぱりそんなに関心なかったので、作品の話へ。

ステートメントが日本語しかないので、なかなか分かりにくいのですが、展覧会タイトルの”SEEING THINGS”を訳すと「幻(幻覚)を見ること」となります。「幻を見ること」がタイトルで3DCGを使っている作家を集めたとなると、だいたい文脈は見えてきます。現在でもIT企業の本拠地と言えばアメリカ西海岸です。日本のIT業界では思想的な背景が見えにくいのですが、ワールド・ワイド・ウェブというちょっとキテいる感じの名称にも刻印されているように、IT起業家の多くはニューエイジ思想を背景に持っています。つまり、幻覚バリバリなわけです。世界を一つに繋げる理想を掲げたり、環境問題に敏感だったり、スーツを着ないでジーパンを履いていたり。彼らは脱社会的な思想や運動を実践に持ち込んだ人たちだと理解すればよいでしょうか。そこではドラッグを使った「幻」は、現実的に社会を変える「夢」として現れます。さて、そのとき「夢」の中から「幻」が亡霊のように立ち現われてくる。その姿をいかに捉えるか。これ以上書くと、あまりにもぼくの関心に引きつけてしまうことになるのでやめておきますが、少なくともこのくらいの流れは、タイトルとテーマから必然的に予想される問題系です。

ここで、作品を見ておきましょう。永田康祐くんは、ディスプレイと一緒に植物や鏡や金属を配置した作品と、一つのマンションを撮影した複数の画像を繋ぎあわせてぱっと見、自然に見えるもののよく見ると各階の高さが違ったり、少し画像がずれていたりと不自然なことがわかってくる写真作品です。彼の作品の問題系は空間にあるとぼくは思いました。だから、この現実空間を前提にしない別の空間(サイバースペース?)を見たくなります。[★3]花房太一「サイバースペースで彫刻は可能か」
http://hanapusa.com/text/critic/cyber-space.html
しかし、作品構成は既視感のあるインスタレーションの作法に則っているため、そのコンポジションだけが見えてきます。すると単純に絵画的、もっと言えばフォト的な絵面の反復に見えてしまいます。作品の素材や技術と、作品の構成がずれているように思いました。

続いて、わたしが個人的に開催していた勉強会「ぷさゼミ」の生徒だった山形一生くん。魚の形をした3DCGに皮膚のテクスチャーをあてはめた画像作品と、水槽の背景にあるディスプレイに砂漠に打ち上げられた3DCGで作られたクジラがバタバタともがいている映像を写したもの、さらに自宅で繁殖させている希少なゴキブリの抜け殻。山形くんの狙いは、想定外の使用方法によって新しい技術を生命的に、生き生きと視覚化することにあると思います。彼の作品には奇妙な粘膜性があります。感覚的に「ぬるっと」している。作品自体には彼の良さはでていました。

最後にお待ちかねの須賀悠介。最近ブイブイ言わせてます。デュシャンの「泉」を撮影したスティーグリッツの写真を3DCGにして便器を一回転させた作品。映されていない写真の中から無理やりに歴史的画像を引き出す手つき自体にテーマがあると思います。もう一つ、デュシャンの「階段を降りる裸婦」を球面にプリントした3DCGを作って色調を加工する画像作品。デュシャンの絵画が、たった一手で絵画の局面を変えてしまったように、わたしたちの認識が3DCGによって劇的な変化を起すかもしれないこと、あるいは何も起こらないかもしれないことを叙情的に表現していると思います。さらに、ネット上にあるHOLLYWOODの画像を複数枚重ねて、3DCGソフトの高低差を組み込む機能にかけて立体化し、それを3Dプリンターで出力した作品。現実/現実的。あいだに挟まれたスラッシュを掘り出す手つきを見ると、やはり彼は彫刻家だと理解されます。

と、3人それぞれになかなかに語れる作品群ではあります。しかし、冒頭に書いたタイトルとテーマから予想される作品ではないように思います。すると、観賞者は手がかりを失ってしまい、うまくまとまった展示にしか見えなくなってしまいます。実際、それぞれの作家の力量は大したもので、展示としてはとても見やすい。しかし、その分、作品が見えてこないという致命的な欠点がありました。それぞれの個展で見ると全く違ったと思います。実際、個人的によく知っている、山形くんと須賀くんの作品については、ぼくはポジティブな側面を見出すことができますが、個人的にあまり知らない永田くんの作品をポジティブに読むことはできませんでした。たぶん、今回の展示では永田くんのやりたいことが見えにくかったのではないかと思うのです。

とは言え、今回はキュレーターが入らない作家だけの3人展なので、かなりきつかったと思います。2人であれば話し合いながら、共通点を引き出せたのだと思いますが、3人だったのでうまい具合にちょうど分かりづらいポイントに妥協点が見つかってしまったのだと思います。展示って難しいなと思った次第です。しかし、それぞれ実力派であることはよく分かる展示だったので、今後も個別の活動に注目したいと思います。

References

References
1 101 TOKYO Contemporary Art Fair 2009
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2009/04/101tokyo-2009.html
2 梅沢和木「エクストリームAR画像コア」インタビュー
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2013/10/diesel-umezawa-kazuki-extreme-ar-gazo-core.html
3 花房太一「サイバースペースで彫刻は可能か」
http://hanapusa.com/text/critic/cyber-space.html