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キュンチョメ「暗闇でこんにちは」
毒山凡太朗「戦慄とオーガズム」

会期:2016年8月27日(土)~9月24日(土)
会期:駒込倉庫 Komagome SOKO
www.facebook.com/events/235086093558692/
kyunchome.main.jp/

キュンチョメ「暗闇でこんにちは」 毒山凡太朗「戦慄とオーガズム」

Chim↑Pomのリーダー卯城竜太先生の「天才ハイスクール」受講生2組のダブル個展。福島でも毒山凡太朗+キュンチョメ「今日もきこえる」という展示をしていました。ここ2年くらいに制作された2組の作品を全て見られるお得な展覧会です。場所は駒込倉庫という新しくできたギャラリースペースで、施工屋さんが関係していることもあって、ホワイトキューブに近い、展示会場として申し分ない空間です。「天才ハイスクール」修了展が行われた高円寺GARTERでの展示とは全く見え方が違います。[★1]天才ハイスクール!!!! 展覧会「Genbutsu Over Dose」フォトレポート
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2015/04/tensai-highschool-genbutsu-over-dose.html
GARTERではどうしても、どうやってアート外部から攻撃してくるのかと「反アート」のノリで展示を見てしまうのですが、白い壁に囲まれた空間で見ると彼らの立ち位置がよりよく見えました。

キュンチョメは「針と糸」という新作がよかったです。二人でただ針に赤い糸を通す作業を撮影しただけの映像作品なのですが、もうエロいことこの上ないんですね。ナブチくんの話では、英語圏の人がこれをやると「Oh yes」って吐息混じりに言うらしんです。もうそのままですね。エロいんだけど、生々しくなくて、すごく馬鹿らしくて、愛おしい、人間味がストレートに見える。これを見て、キュンチョメって愛の作家だよなって思いました。

そこで、関係ないように思われるでしょうが、ぼくは二つの映画を思い出したんです。『リップ・ヴァン・ウィンクルの花嫁』(岩井俊二監督)と『君の名は。』(新海誠監督)です。[★2]『リップ・ヴァン・ウィンクルの花嫁』(岩井俊二監督)
http://rvw-bride.com/
『君の名は。』(新海誠監督)
http://www.kiminona.com/index.html
『リップ・ヴァン・ウィンクルの花嫁』は里中真白 (Cocco)が毒貝で自殺するんですが、そのとき貝を手に握って死ぬんです。たぶん本当は友だちになった皆川七海(黒木華)と手を繋いで心中しようと思っていたんですね。実際、真白は心中相手を探すために、何でも屋の安室行舛(綾野剛)に依頼して七海と友だちになりました。でも結局、真白は一人で死んだ。ぼくはその真白の掌がすごく印象に残りました。掌があの人の掌とくっついているような、でも本当はくっついていないような、そういう誰とも毒も愛も共有できない淡い色彩があると思うんです。(何言ってるか分からないですね。やる気になったら別項で書きます。)そして『君の名は。』これもまた愛の話ですね。キュンチョメも見たそうです。ナブチくんはめっちゃ面白かったそうですが、ホンマさんはびっくりするほどクソ映画だったと言っていました。 女性主人公・宮水三葉は神社の娘、つまり巫女さんなのですが、そのおばあちゃんが本作のキーワードを話す場面があります。時間や出会いなど、あらゆる関係性は糸のようなもので、絡まって、切れて、離れて、繋がって、、、それを繰り返すのだという話をします。話が飛びすぎで何が言いたいのかぜんぜん上手く書けていませんが、とにかく、二つの映画とキュンチョメの作品は現代における愛の形を示している点で共通点があるように感じたんです。まだうまく言語化できないのですが、ここではひとまずそれを「蓋然性の愛」と言っておきたいと思います。

続いて毒山凡太朗。一部では、アクティビズム系のアーティストとして知名度を獲得しているように思いますが、まだご存知でない方も多いと思うので、一つ一つ作品を見ていきましょう。

まずは「経済産業省第4分館」。経済産業省の角に狭いながらも一般の人が自由に休憩できる公園があります。そこに脱原発の活動家の方々が「勝手に」テントを立てました。実に1807日間占拠を続けたが裁判で敗訴し強制撤去が決まった。毒山凡太朗はぎりぎりのタイミングで、この「脱原発テント」を会場として展覧会を行いました。彼のアイディアはその公園に「経済産業省第4分館」という建築物を作ることでした。毒山は建築会社で働いていたこともあっただけあって、設計図も異様にリアルです。マケットも作られており、生活するにも、デモをするにもよく考えられた設計でした。「脱原発テント」は撤去されてしまいましたが、その中にあった手作りのバナーを毒山が譲り受けたそうです。その代わりに、毒山が新しいバナーを作ってテント内に飾っていました。だから、いま警察署に押収され保管されているバナーは実は毒山の作品です。30代前半にして、日本の中枢の「パブリックコレクション」になったわけです。その分、見る機会はもうないかもしれませんが。

毒山凡太朗の作品について書こうとすると長文になってしまいます。それは、きっとぼくが毒山くんの作品にあまりに強い思いを託してしまうからだと思います。長くなり過ぎないように他の作品についても見てみましょう。

続いて、「ずっと夢見てる」。街なかで酔いつぶれたサラリーマン風の人に、ブラック企業として話題になった企業名が日の丸型にプリントされた布を被せてあげる作品。一見、サラリーマンをネタにした政治的な作品に見えます。でも、毒山は彼らに強いシンパシーを頂いているのだと思います。直接「お疲れ様です。」というのは憚られるから、ただ布をかける。そのとき、毒山はちょっと照れくさそうな顔をしているのでしょう。だから、そのときの毒山の顔が映像に映し出されることはありません。彼の作品に政治性があるとしても、それはイデオロギーから最も遠いところにあります。まるで床屋談義のような、泥臭くて、面倒くさくて、愛おしくて、おじいちゃんおばあちゃんのしわくちゃの顔を思い出して思わず涙が流れるような、そんな静かで叙情的な政治性です。そして、これが日本を支えてきた「保守」の基盤なのだと思うのです。

「1/150」は海岸に打ち上げられたイルカの死骸をただ撮影した映像作品。波打ち際、イルカの身体が揺れているように見えます。しかし、イルカが波に攫われてまた海を泳ぐことはありません。腐り始めた身体の横に置かれた救命胴衣が、イルカの身体の代わりに、海を漂い始めます。それは単なるゴミでしかありません。「LInCCAi-chan」はリカちゃん人形を持って、福島の原発作業員を客にして儲かりまくっている風俗店に行く映像作品。タクシーで風俗街を回りながら、運転手や店員から具体的な話を聞き出しまくることができるのは毒山独特のキャラがあるからでしょう。彼ほど誰にでも気に入られるアーティストをぼくは知りません。それが、彼の魅力であり、足かせにもなっている気がします。最後が「これから先もイイ感じ」。やっとハイハイができるようになったくらいの赤ん坊と、毒山が働いている介護施設の老人、両者に「立ってみよう」と元気づける映像作品。最後に、毒山が赤い足型の金属をガラガラと引き釣りながら、福島に新設された長大な防波堤沿いを朝日に向かって歩いていきます。

このように一つ一つ見ていくと、なぜかどんどん毒山の作品から遠ざかっていくように思います。毒山の作品を観賞することが、そのまま毒山凡太朗という作家を忘却する作業のように思えてくるのです。それはきっと、毒山が社会の隙間を埋めるために作品を制作しているからだと思います。アーティストはあらゆる事象を自分の作品に取り込んでしまう手つきによって評価されます。しかし、毒山はとにかくいいやつなんです。だから、社会の隙間が見えてしまう。それが気になって仕方がない。だから、誰もが忘れたがっている隙間を埋める。毒山という作家を忘却させることによって、普段忘却されている隙間を見せる。その自己犠牲的振る舞いを評価することもできるでしょう。でも、友人でもあるぼくにとって、そんな毒山のアクションを見続けることはあまりに辛いのです。もっと自分を押し出してくれよ、もっとよくどおしくあってくれよ、と思ってしまうのです。

その点、雨ざらしのテラスに展示されていた名も無き映像作品は、毒山の素が出ていてとてもよかった。『智恵子抄』の記念碑の前で、放射能に汚染された雨を浴びながら、厚い雨雲を指差して「この上が、本当の空!」と叫び続ける映像作品。この映像は、地面に展示されています。観賞者が本当の空を観るには、映像から目をそらさなければいけません。毒山の指差す空と、観賞者の上に広がる空。それらは交わることはない。でも、きっと交わることがないという事実にしか、毒山はリアリティを見いだせ得ないのです。ぼくはそんな毒山の不器用な作品に、強く惹かれてしまいます。


藝祭2016

会期:藝祭会期:2016/9/2 ~ 9/4
開催場所:東京藝術大学上野校舎
http://geisai.geidai.ac.jp/2016/

GEISAI 2016

日本最高峰の芸術系大学、東京藝術大学の学園祭に行ってきました。若い世代の流れに取り残されないためにも、できるだけ学生の展示も見るようにしています。中でも東京藝術大学はトップなので、全学年・全学科の作品をまとめて見られる藝祭はお得です。

ぼくは一応「現代アート」がフィールドなので、油画を中心に見ます。同年代で付き合いの長い友人たちも9割くらいは油画の出身です。ちょっとおかしな事態ではあるのですが、基本的に「現代アート」は油画科の学生が作るということが日本のお決まりになっています。他の学科は画壇などを最終目標にしたドメスティックな美術教育がされていることが共通認識であり、また事実であると思います。とは言え、ぼくは最近、彫刻科の学生にも知り合いが増えて、彫刻科でエッジの効いたことをしようとしている学生も数名知っています。しかし、彼らは藝祭での展示に批判的なようで、誰も作品を展示していませんでした。確かに、彫刻科の展示室は木彫の人体彫刻などがずらっと並んでおり、「現代アート」をやろうとしている学生が、この環境で展示したいとは思わないだろうなと、半分は共感しました。それでも、やはりせっかく多くのひと目に触れる機会なのだから、何らかの形で作品を展示したほうがよいのではないかとも思います。それでも、美術系大学はいろいろと難しいみたいです。彼らにはどんどん外部での展示機会を設けて世界を広げてチャレンジして行って欲しいと思っています。

さて、絵画棟をまるまる使って展示されている油画(と日本画)の展示を見ていきましょう。総評から書くと、極めて低調でした。学部生はほとんどがベタなペインティングでした。ペインティングでもいんですが、どういう文脈で描かれた絵画なのかが全然読めない。既視感すら覚えないという点で、極めて低調と言わざるを得ない状況にあると思います。エッセイとしてまとめる予定ですが、ぼくが作品を観賞する際には頭のなかで「美術作品の引用文献」を列挙します。ある程度、歴史を勉強しておけば、その作品がどの系譜にあるのかを瞬時に挙げることができるようになります。特に、藝祭のように大量の作品を見るためには、頭のなかで作品を分類して認識する必要に迫られます。できるだけたくさんの作品を頭の中に、あるいは身体にストックしておいて、目の前の作品を見てすぐにストックから関連する作品を取り出し、分類し、整理して、そこから漏れる部分、つまりその作品のオリジナリティを判断する。少なくともぼくはそういう見方をしています。そして、この見方が正統派だと思っています。しかし、油画の学生の作品を見てもほとんど「引用文献」が思い浮かばない。もちろん、ぼくだけの見方が正しいとは言いません。しかし、どちらにせよ、全体的に低調であることには違いないと思います。やはり感覚的な「いい絵」を目指す傾向が強まっているように思いました。[★3]花房太一「「いい絵」試論-or “Accessory Painting”-」
http://hanapusa.com/text/critic/accessory-painting.html
とても危機的な状況にあると思います。

しかし、いいアーティストはいつの時代にも一定数出てきます。今回は3名の学生について触れておきたいと思います。

まずは、好川翔太郎くんの「現代仏図」。仏壇状の展示台の最上段にペインタリーな女性の絵が展示されています。その上に、ベタベタなプロジェクションマッピングで作品を見せる、あるいは見えなくさせる作品です。タイあたりのド派手なネオンでピカピカに照らされた現代仏像を思い出させる展示です。そこにペインティングへのチンケな憧れと、新しいように見えて全然新しくないプロジェクションマッピングを合わせることで、現在性を獲得しています。ペインティングはちゃんとペインタリーに描かれていて、それでけでもなかなかいい。たぶん、アトリエの窓際に寝そべる女性がモチーフなのでしょう。ネタ的な作品に見えますが、不思議と手を合わせたくなるような崇高さがあります。ベタなペインティングとベタなプロジェクションマッピングを組み合わせるというネタによって、ベタとネタを超越する崇高さに一気に引き上げていく手つきはすでにアーティストとしての自分の武器を掴んでいると思います。(ちょっと褒め過ぎかな?)

続いて、同じ部屋で展示されていた内村覚くんの「エンドレスロール」。藝祭では、自分のアトリエを使用して展示するので、たぶん好川くんと仲良しなのでしょう。類は友を呼ぶと言いましょうか、やはり藝大生のことは藝大生が一番よく知っています。内村くんの作品はそのタイトルのままです。映画などの最後に流れる「エンドロール」がエンドレスで続きます。少なくない数の観賞者は、何か映像がはじまるはずだと思い込んで、3周くらい「エンドロール」を見続けていました。ちゃんと読めば、ほとんどのクレジットが「Satoru Uchimura」なので、すぐに気づくようにも思うのですが、エンドロールまできっちり見るという奇特な習慣を持つ日本人は、我慢できてしまうのですね。その光景を見ているだけでも可笑しかったです。彼らの一学年先輩の布施琳太郎くんに聞いたところ、内村くんは進級制作で、伸縮性のある布にベタなペインティングを描いていたそうです。そして、その裏から時折、内村くん自身が自分の顔を押し当てる。突然、立体的な顔が現れて、布施くんや布施くんと同学年の多田恋一朗くんはかなり驚いたそうです。ほとんどアイディア一発の作品なのですが、アイディアだけで押していく作品を二つ連続で制作できただけでもかなりアイディアのストックがあると思われます。彼もすでに、自分の武器を見つけていると思います。ぎゅんぎゅん磨いて欲しいです。

最後に田沼可奈子さんの「植物人間」。水滴のような形のドローイングを切り出して、紙の反対側にひっくり返し、それをまるめた作品。窓の向うにいる人物像を、手前に掛けられた葉っぱの隙間から覗くドローイング作品。りんごをプリントした紙をザクザクに切って直立させる作品。言葉で説明することがなかなか難しいのですが、それは彼女の作品をぼくがまだつかめていないからだと思います。彼女は、これまで虹ばかり描いていたそうですが、それは虹は誰もが好きな最強のモチーフだから、という理由からだったそうです。展示されていたりんごについても、「りんごって嫌いな人いないじゃないですか。」という理由でモチーフに使ったそうです。嫌いな人もいると思うんですけどね。。。徹底した他者性へと作品が向かって行くならば、かなりの可能性を秘めていると、直感的にですが、思いました。

さて、以上の3名がぼくが新しく知ることのできた作家たちです。画像を見返してみると、その他にも、フィギュアをいっぱい作っている先端の学生や、すごい気持ち悪い自作の人形をひたすら描いている学部一年生、商品のパッケージをただ丸くするだけの学生、同じパンを3種類の描き方にしたぷさゼミの林菜穂、ひたすらボーダーを描きつづける谷口洸さん、アイヌ文化を対象にしたのか矢野馨香さん、などなど話を聞いてみたいなと思った作品はかなりありました。なぜ全体的に低調だと思ったのか分からなくなってきました。。。それから、大学院生はさすがに展示慣れしていました。彼らは外部でも展示をしている作家なのでここでは名前に触れないことにします。個展などで見たら何か書きたいと思います。

さて、今回もまた長文になってしまいましたが、最後に触れなければいけない「ホワイトベース」(川田龍、多田恋一朗、日下部、布施琳太郎)。藝祭では、独立した展覧会という形での展示はなかなか大変らしいので、その行動力だけでも褒めてあげたい、そんな親心になってしまいます。川田くんは王道のペインティングで勝負する作家。人物画のイメージが強いですが、彼の関心はモチーフにはありません。今回はいくつかの伏線を引いていまいしたが、まだマッチングしていない印象です。しかし、愚直に王道に挑戦していく道は応援したいです。まだ大学院に入学したばかり、この調子でどんどん「失敗」して欲しいです。多田恋一朗は変わらずかわいい女の子のペインティング。恋一朗くんも女の子を描きたいわけではないと、ぼくは思っています。女の子の絵に何を託しているのか、ぼくはまだつかめていないのですが、とりあえず女の子的何かではあるのでしょう。川田くんも恋一朗くんも、このまま描き続けても売れる作家にはなれるでしょうが、それだけだと広がりがないので、とにかく変なことをして欲しいですね。ぼくは彼らを挑発し続けようと思っています。日下部くんはファーストネームを知らないです。石をメディウムにして石を描く作品。奇しくも現在性を獲得しています。彼の狙いを詳しく聞いたのですが、なかなかおもしろい。この4名の中でもっとも古典的に見える作品でありながら、コンセプトはもっとも現代的です。ネタばらしにはまだ早いので、今後の作品展開に際して言及できればと思います。布施琳太郎くんはやはり絵画を描きたい作家なんですね。今回のインスタレーションは彼の絵画に対する認識がすっきり現れていました。ぼくは、琳太郎くんは絵画をフォームによって定義しているのだろうと思っていたのですが、おそらく「フレーム」と言ったほうが適切なのでしょう。今回は全て矩形の作品によって構成されていたので、これまでインスタレーションの要素の一部として見えてこなかった一つ一つの「絵画」が見えてきました。琳太郎くんはきっと絵描きになる、と予言(!)しておきます。

References   [ + ]

1. 天才ハイスクール!!!! 展覧会「Genbutsu Over Dose」フォトレポート
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2015/04/tensai-highschool-genbutsu-over-dose.html
2. 『リップ・ヴァン・ウィンクルの花嫁』(岩井俊二監督)
http://rvw-bride.com/
『君の名は。』(新海誠監督)
http://www.kiminona.com/index.html
3. 花房太一「「いい絵」試論-or “Accessory Painting”-」
http://hanapusa.com/text/critic/accessory-painting.html