荒川修作 ICCインタヴュー

ICCの映像アーカイブHIVEで公開されている荒川修作のインタビューを文字起こししました。

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ICC インタヴュー・シリーズ 02:荒川修作ICC
Interview Series 02: ARAKAWA Shusaku


見てすぐ分かるように、日本人で、何の特性もない人間で、たまたま2、3のラッキーな運命的なことに身を寄せたがために、でたらめなジグザクな道であったけれど一つの新しい、哲学とか思想までは行かないけど、アイディアを実行に移そうという大きなリュックサックのようなものを背負わされた人間は、支離滅裂なほうに向かうか、それともこれを少しでも構築のほうに向かうかというのが、僕のような人間のProfileだな。

「思考するとは何か?」

哲学をするというのは鉛筆と紙でできることだな、言語を使って。絵を描くというのはキャンバスの上になんかすることだな、彫刻を作る、全てフレームがある、詩を書くこと。あのようなフィクションを、どうしてわれわれはこんなにも半強制的に信じるようになってしまったのか。例えば、僕の場合はそれは絵描きだな。キャンバスの上にはこの指一本も入っていかないんだ。生活空間もない、日常空間もない、いわゆる本当にFictionの世界をどうしてこんなにわれわれの文化体系の中では高く評価するんだろう。それに悩まされた長い間。それは行って何週間も立たないうちからそれがあった。

それともう一つは、私のように日本人として生まれた人間は一体、体系のようなものを立てられるのか。それで実験として始めた、最初は。最初の2、3年は無我夢中だった。5年、6年と過ぎるころは、これはできないこともないと確信が出てきた。それはね、これは確実だけど、自分が生まれたところから距離を持ったことなんだ。この地球上で日本人として生まれたことは、行った途端にどんな人間でも考えるんだ、外国に行って住むために。そうするとまず言葉の問題だな。一体、日本語でものを考えるとはどういうことか。それから、日本人の持っている感性というのはどのように使用しているのか。その意味をちょっとじゃなくて、一度徹底的にやってやろうと思ったんだ。それも案外、感覚的に初めたんだ。徹底的にやってやろうというのを。それほど欧米の哲学者や思想家のように、われわれには良い例がないんだ、この国には。だからといって出来ないことはないだろうと思った。それで、あのタイトルなんて嫌いなんだ。「意味のメカニズム」なんて大げさなことは。だけど結果的にはそうなってしまったけど。ほんとうにジグザグに、外国語と、英語だね僕の場合は、と日本語で意味についてまったく、これはもう考えられない、不可能だと思ったことをやってたんだ。

約10年やってみて、日本語の特殊性、特殊なところと、英語の特殊なところが僕なりに分かってきたんだ。その中にたまたま身体の動きというのが、意味について仕事をするためにどうしても出てきてしまったんだ。ちょうど70年の初め、60年のおしまいに出てきたな。これには参った。これにはほんとうに参った。いまだに少し参っているけど。そこから、嫌でも、Experimental Pshychologyっていうか、嫌でも入っていかなくちゃいけない。それで真剣にそちらに入っていった。だから、私の場合は、結局、結果的に言えば、60年の初めから、ほんとにこの間まで、日本語でなんて訳すんだろう、実験心理学、Experimental Pshychologyをやり続けてきたんだな。なにがあろうと、人間の世界から飛び出そうと。

「建築(的身体)とは何か?」

まずどうしてこれだけたくさんあった芸術の形式から私が建築するということを選んだかというと、先程も言ったように、身体の動き、それから一番身近で、全ての人が忘れてしまっていた肉体というやつな、それを使用しない限り、何事も始まらないということが分かった。それこそが、いわゆる日常空間とか、生活空間を作っているもっとも基本の単位なんだ。唯一残っている身体の動きを入れられる形式は建築しかない。だから、ちょうど70年の初めから意識的にそちらに入っていった。

そして、どうしてあなたは日本から。私がやろうとしていることは、始めたことは、まず新しく、建築という言葉の意味を、まずこの地引から変えなくちゃいけないんだ。そうすると、どの国がそれが実行しやすいかというと、無思想で無体系な国が一番いいわけだ。なぜかといったら、体系とか思想がある国は、そう簡単に一つの長い伝統を持った言葉の意味を変えることは不可能だな。だから、まず欧米ではまず不可能だ。それで、日本という国を、まず日本から始めようとした。それと、たまたまこの日本人の性質が21世紀に向いているということが分かったんだ、僕は。なぜなら、いままで世界の人に言われていた、しかも日本の知識人もおそらく知っているだろう、知識人じゃなくて普通の人も知っているだろう、自分たちの欠点はこのようなChaoticでものすごい危ない時代になってきたときは使いやすいんんだな。それが証拠に、日本の技術革命はすごく臆病な、短気で、それから無思想で無体系で怒りやすい、そういう条件が揃ってたからできたんだ、僕はそう思っている。いまでもそう思ってるんだ。だから、それを利用して一つ建築の形式どころか、一つ、常識、および道徳、日本のだよ、日本人の道徳、日本人のCommon Senceそれから、倫理っていうやつを変革してやろうと思った。それで、僕には、私にだな、私にはもうそれしかないと思った、建築革命しか、なぜなら体系や思想のない国は、事実より、信じない。この国にどんない素晴らしい思想を輸入したり、音楽や絵画を輸入しても消費しちゃうんだよ、食べ物のように。だから僕の知っている限りの日本、たとえば50年以後のこの40年か50年は、思想も食べ物も自分の運動もじぶんの人生もすべて同等に消費しているんだよ。だから何も残らない。だから、無意識のペシミズムなんだ。外国は意識的なペシミズムなんだ。そこが違いだよ。だから、この違いは決定的なんだよ。どちらがいいということではないんだよ。無意識と意識的なペシミズムの違いってのは、もう決定的な違いなんだ。

その違いを一つずつ僕はいま出していこう、それを出すには建築という形式がもっともすばらしいと。間違えてもらっては困るけど、建築と建物とはぜんぜん違うんだよ。この国では建物を作る人を建築家って言ってんだ。建築家はおよそそれからもっとも遠いものだ。ひょっとするとなんにも関係ないんだよ。建物と建築家ってのは。だから、僕の知っている限りでは、この国には建築家は一人もいなかった。建築するとは、こういうことなんだよ。建築の原形っていのは、わたくしとPronounceしたときに浮かび上がってくるものがあるんだよ。その浮かび上がってくるものをなんとか外側に作り上げようと、構築しようとする行為なんだよ。僕にとっては。そうすると、私が人になるにはものすごい距離とDimensionが変わるんだよ。もはや共同性を帯びるんだよ。私、「あの人ね」っていうだろ。あのときはもはや人は共同性を帯びているから、いいかね、そのときは環境がすべて入っちゃってるんだな。だけど、私の場合は環境に支えられて私があるからまだ少し定点があるんだよ。でも、もう「あの人」になったときには確実に偏在としてかない。とぅっとぅっとぅっ。そして「あの人間」になったときにはもはや共同体まではいかないけど、そこまで近いんだ。だから建築するとは、一番最初にPronounceしたときに私と言ったときに、イメージとか、それに伴ってくる内容があるだろ、それをどのように形作り、それから、できればだよ、その使用も考える人のことを建築家と呼ばなくちゃいけない。

「奈義と養老、人工の自然とは何か?」

すべての欧米もアジアの思想も与えられた自然だな、自然の現象を眺めてそこからああしようこうしようと考えているんだ。全てそうなんだ。いいか、僕の場合は、私の場合は、決定的に違うのはここなんだ。自然をこっちで作ってやろうって、作り直してやろうと。日本人は聖地なんてものを作ったんだ、たくさん。富士山、すごいですねぇー完璧ですねぇー。あんなもの100でも作れるんだ、もっと高くて1年中雪が積もるものを東京のど真ん中にできるんだよ。誰もやらない。あんなに富士山が好きならどうして作らないんだろう。杉並区は富士山にしちゃってもいんだよな。そこにまた町を作ればいい。それで杉並区にある富士山は1000メートル高いんだよ、オリジナルよりも、最初の古いやつよりも。そしたら今から生まれてくるやつこっちのほうが好きだよ、こちらを拝みに来るんだよ。

どうしてそのように自然に真っ向から反対して、自分たちからコントロールできる自然に向かわないんだろう。そうしたらその山の使い方も分かるんだよ。それを僕は始めたんだよ。それはメカニズムとかそういうことを初めて知ったんだよ。それから距離を置くことによって、自分の国から。もしそうだとしたらもう僕には、私には自然自体を人工的に作る。どういうことかっていうと、自分の生きている時代のEthics倫理を変えてしまうことなんだ。もう常識とか道徳なんてどうでもいんだよ。そうなると大変不思議なことをやらなくちゃいけない。不思議って言うよりね、案外過激なことをやらなくちゃいけないんだな。それではじめて奈義の問題や岐阜の問題が出てきたな。あそこに日常空間、たくさんの人が住んで欲しいんだよ。それで、そこの中で足を折ったり、首を折ったり、ご飯を食べたり、便所に行ったりするなかから生まれてくる出来事が作り上げる現象を僕はこの日本で建築的身体と呼んでいる。それはなんだというと、魂という言葉を地引から永久になくそうという行為なんだ。肉体と建築的身体しかありませんと。この肉体というのは滅びるけど、建築的身体は永久に生きる可能性があるですだよ。もし、私のこの町や村がこの環境を作ってくれたら、それは地球が破裂しても壊すことができないんだ。なぜなら、またまったく違うところから発生する可能性があるんだ。

「文明とは何か?」

せめて自分が生きた時代、生きているときに、一体日本文明というものがどんなものであるかということが明確に形作れないだろうか、それもやっぱり70年代半ば頃から思い出した、やりだした、考えだした。やればやるほど分からなくなってくるんだ。なぜなら、僕がたまたま外国に住んでいるから、向こうでは、Take for Grantedなんだよ。もうCivilzationといったら当たり前なんだ。われわれはCivilizeされたところにいるからということを言うんだけど、ここへ戻ってくるとそうは行かないんだ。だから僕なんてもう分裂症気味だよ。ここにきてここでしゃべる。いまなんかものすごく不思議なんだ。文明と言いながら頭の中にはCivilizationがある。だから、これは日本の知識人が全部背負っているもので、とくに福沢諭吉さんなんか、それでこんなんなんったんだ。じゃあ、なんだって、文明とは。漢字で書かれた、文、明というのはどんなに僕がこうしても分からなんだ。だから、日本の中の文明って何なんだろうというのはこういうことなんだ。

まず都市化から始めなくちゃいけない。organizationっていうやつだな。都市化から始めなくちゃいけないんだ。もっとはっきり言えば、易しく言えば、こういうことだ。文明の基礎とはこういうところにあるんだよ。日本で生まれて、この4つか5つの島で生を賜った人は、だいたい考えて縄文の前でもいい、洞窟か何かに住んでいたんだな。毎日ビクビクして、こうして。それで、洞窟の前も大きな岩や色々なものでで防いでしまって、ほんの少ししか見るところがないんだ。青空もちょっとしかない。でもそこから覗く世界はすごいんだよ。天気の日は青空があるし、水が流れているし、川の中ではなんとなく、なにか自分たちが輝いていてかっと思うようなものがあるし、ということは獰猛な動物やなにかがもっとも素晴らしいところに住んでいて、自分たちはこんなところにいるんだよ。それである日考えたんだ。どうして俺はあの動物のように住めないんだろう。こんな素晴らしい青空の下で。隣のやつに聞こうとしても隣のCaveはものすごい遠いんだよ。そうそすると共同性もまだ成り立っていない。それで一つ、女性と子どもと自分があれば、どう見てもあの熊に体当たりしていくのは俺なのよ。じゃああそこを獲得するためには、あの危ない中に入っていくよりしょうがない。それでその男はそこを降りていったわけだ。最初は何がなんだか分からない、素手でいったわけだ。ぽくってやられちゃったんだ。それを見ていた女性か男性が、何か持っていた。石を持っていってぷっとやったら、そんな石を一つ持っていったところでどうしようもない、ぱくっと食われちゃったんだ。それを見ていたとなり、となりのCaveのやつが俺もやってみよう、俺もやってみようと始めた。そこから共同性が始まったんだ。そこから、言葉というものも生まれてきたんだ。サイン。お前いけ、お前いけ、俺も行くから。おそらくそうだろう。いいか、死にものぐるいの戦いが何百年、何千年と始まったんだ。この国でだよ。それで、あるとき獲得したんだよ。槍を作ったりなんかして、それで自分の一番住みたいところ、行ってみたいと思った川縁で、洞窟を全部壊したんだ。そのときに一番最初にやらなくちゃいけないのはその危ないやつを防ぐために都市化が始まったんだ。それを文明というんだよ、本当は。そのようにまともに説明したやつがこの国には一人もいない、易しく。

文明はこの国以外にあるって言ったんだよ。あの偉い人たちが、福沢諭吉さんとか。向こうを見てみろ、向こうを見てみろ、向こうっていのはみんな地平線なんだよ、この国は。いいか、地平線を乗り越えるためには、すごい船を作って戦いの道具をもって行かなくちゃいけなかったんだ。だから誰も行かなかったんだ。行ったのはほんとうに100年か200年前だ。それくらい臆病な国民なんだ。いいか、これだけ海に囲まれていたらどんなやつだって海に行って夕方に帰ってきて、秋の夜か、春のおしまいくらいに、一体あのへんちくりんな線の向こうにはなにがあるんだろう、誰でも考えたはずだよ。どの村のやつも。いやぁなんだろうな、それくらいなんだよ。それを疑ったのは、向こう側に俺行ってみるというやつが出てこなかったんだ。どうしてだと思う。それを究明したいんだ。この臆病さ、このコソコソしたものはそこから出てきているんだよ。それはいくつかあるんだよ、アイディアが。それを一つ直してやろうと。

だから僕が建築のほうへ入ってきた一番根本は、この日本人の性質はどのようにできたかというのを徹底的に直す方法はないのか。それは一つのもっともすばらしい環境の村か町を一番希望のないやつらに与えるということなんだよ。そして、その希望のないやつらがその自分に与えられた素晴らしい自分の居間から、住んでいる生活空間から、星を眺めたりするんだよ。そうすると今度は星をバカにできるんだよ、あんなものって。今度はOfficeを見てあんなものって。俺の部屋を見てみろよ、俺の住んでいるところを。もっと大きいぞ、もっと素晴らしいというんだよ。そのとき初めて希望とか自由という意味が出てくるんだよ。言語は行為をもつためには、それなりの環境を作らなくちゃいけないんだ。それはここから入ってくるものじゃないんだ。肉体の動きから入ってくるものなんだ。肉体の動きをあゆるPerception、知覚や視覚を変えるんだよ、毎秒。その出来事によって、新しい言葉が生まれるんだ、新しいサインが生まれるんだ。それがない限り決してそこの国民の文化は生まれなんだ。だからこの国には文化が無いんだ。ゼロだ、Pure Zeroだ。それで俺は頭に来たんだ。いまでも来てるけどな。頭だけじゃない身体にも来てるけどな。それで一つ徹底的にやってやろうと思ったんだけれど、なにせ臆病の国に生まれた、俺も臆病なんだよ。こんなこと大きな声で言ってもしょうがないけど、大きな声が出てしまうけれど。この悲しさはどこにも持っていくところがないんだ。だから、出来る限りの行為をしようと思って今日はここにいるんだよ、このカメラの前に。僕はこういうことはできない人間だけど、僕はこれから始めなくちゃいけなんだな。それで、僕は若い者に希望を託しているんじゃないんだ。自分に希望を託しているんだ。今からやってくる者になんてぜんぜん持っていないんだ。それから今まであったものにも。これっぽちもないんだ。両方全然無いんだ、僕は。だから、いかにして今を、この私が抱いてきたものに近づけるか、それしかないんんだな。

「コンピュータと芸術の関係とは?」

時間の節約とDimensionの節約を図るために、いろいろこの10年20年いろいろ技術が開発されているだろう。あれは精神的にはよくないものだ、本当に。ということはね、いまのところどれだけ物理学が、それから生物学が、それから数学が進んでもね、私たちの頭は一つで、腕は二つで、足は2本なんだよ。それに関係なくテクノロジーが進んでいるんだよ。これは大変なことなんだよ。どれくらい大変なことかというと、もうすぐ君たち、僕が言わなくてもわかるんだろうけど、われわれが作り出している道具も使えなくなってくるんだ。特に、僕のような職業を持ってしまった人がえらくデジタルなものとか、いわゆるコンピュータのようなものに希望を抱いていたらな、幻滅のなにかを、もう時間の問題だよ。相当ひどいことが起こるよ、もう何年もしないうちに。なぜなら、自由とか、真に希望を持つというもののDimensionはどのようなものかと言ったら、およそデジタルなものから遠いものだ。だから、もっとも希望とか自由からはずれたものなんだあれは、コンピュータは。いわゆる夢を持てないものなんだ。

でも、一人や二人、天才的なやつが出てきて、全く新しい使用方法を使って何かをやる可能性はないとは言えないな。だけど、結果的には、こういうことを僕が言うのはおかしいけど、何であろうと、私と呼ばれるこの私よりも素晴らしいコンピュータを作ったら私は不幸になるんだよ、結果的に。だから、そんなものはできるはずがないけれど、出来たって不幸なんだよな。なぜなら、ここからはまったくPureな哲学的問題だけれど、あなたたち聞いたこともあるだろうけど、人工知性とか人工生命なんていうのがあるだろ。あの言葉につられてますますコンピュータの世界は進んでいるけれど、私が、その誰かが人工生命を作ったとしよう、それになるということは全くコンピュータとは関係ないことなんだ。そうだろ。ここに永遠に生きるコンピュータができたとしよう。それで生命があるということも分かっている。だけど、あなたがそれになる保障はおよそないんだよ。そしたら何のためにそれを作ったんだよ。だから、それよりも私の行為によって、この身体の行為によって生まれてくるものは必ず私の延長だろう。もっとはっきり言えば共同に作られているものだろう。そのほうが遥かに希望が持てるものだな。だから、僕はどちらをとると言ったらこちらをとる。