ぼくが最初に映画を見た記憶は『となりのトトロ』なんです。これはもう間違いないと、確信しているんですが、それには理由があるんです。そのときの情景を鮮明に覚えているからなんです。

 その光景は映画館ではないんです。映画館を出たあと、旭川の河川敷を縦に並んで歩いている光景なんです。ぼんやりとですが、ぼくが一番後ろの少し離れているところを歩いている光景があります。この点については、たぶん正確ではないんだけど、ぼくの心象風景としては、そうだったんです。すごく孤独だったんですね。だから、ぼくは映画は孤独に見るものだと今でも思っている気がする。

 では、なぜそんなに孤独だったのか。ぼくの母親は福祉関係従事者なんです。いわゆるケースワーカーと言われる仕事を長いことやっていたんですが、そのときは福祉施設で働いていたのかな。たぶん、福祉関係のイベントみたいなもので、知的障害の子たちと一緒に『トトロ』を見に行ったんです。そのあとパン作りとかもあったのかな。映画館からどこかの場所に移動する途中に旭川の河川敷を通ったんだと思います。その光景が映画の経験と結びついている。そして、ぼくの原風景の一つになっているんです。

 ぼく(とたぶん一緒にいたはずのお姉ちゃん)はその集団の中で、数少ない健常者の子どもなわけです。要するに、マイノリティとしてそこにいるんです。そのとき、ぼくがなぜそう感じたのかまでは分からないんですが、とにかく、自分が誰とも話せないことが分かるんです。大人たちはみんな障害者の子たちの世話に追われている。たぶん母親もそうだったんでしょうね。だから、自分は一人だけで歩かなければならない。ぼくよりも、彼らを優先するべきことは、なんとなく分かっていたんでしょうね。だから、ぼくはぼくで歩く。でも、とても寂しい。ぼくはおしゃべりだから、大人だけじゃなく、障害者の子たちとも話したかったんじゃないかという気がします。とにかく、誰かと交わりたい。でも、ぼくの話はきっと誰も興味が無いだろうし、もっと優先すべきことがある。ぼくは邪魔できない。だから、一人で考えるしかない。そんなに論理的に考えていたわけではないと思うけれど、そんな感覚だけはありありと思い出せるんです。ものすごく寂しい光景。孤独。桜の季節だったかもしれない。

 飛躍しちゃうんですが、ぼくがアウトサイダー・アートに批判的なのはこの経験が関係している気がしています。アウトサイダー・アートって、作家たるアウトサイダーたちを下に見てますよね。彼らを外部として見ている。ぼくの原風景は逆なんです。ぼくがアウトサイダーとしている。自分だけが、外部にいるんです。自分がマイノリティであることに堪えている。そういう感覚があるんです。ぼくの感覚と、アウトサイダー・アートを評価している方々の感覚は真逆だと思う。だから、ぼくはアウトサイダー・アートの批評を読んで、「バカにすんな」となぜか僕自身がバカにされたような気になるんです。ちょっと複雑ですけど、単純すぎるということでもあります。

 もう一つ、これに似た経験を書いておきます。先に書いたようにぼくの母親はケースワーカーだったんですが、父親はいわゆる判定という職業で、職場結婚なんですね。父親も福祉関係の仕事だった。我が家では、しょっちゅう両親が仕事の話をしていたんです。だから、色々な裏話をぼくは知っています。虐待とか表に出てきている話よりさらに残酷な話もいっぱい知っています。そんな話をするとき、両親は、担当している子どもたちのことを、そのまま「子ども」と呼ぶんです。ぼくはそれを聞きながら「お前らの子どもはオレだろ!」と思っていたんです。両親が、自分たちよりも、仕事で見ている「子ども」のほうに真剣な気がしたんです。一言で言えば、嫉妬ですね。ぼくとお姉ちゃんはまあ「優秀」だったので、特に心配されるようなことはしなかった。かなり大きくなってから、このことを両親とお姉ちゃんに話したら、そんなことは誰も思っていなかったそうです。両親は「なるほどなぁーそりゃああんたらは心配するようなことがなかったからなぁー」、お姉ちゃんは「ぜんぜん思わんかったわ」とまあ気楽に言っておりました(笑)。ぼくだけ神経質だったのかもしれないですね。でもこの点も、アウトサイダー・アートへの違和感の源泉になっている気がします。