須賀悠介個展”Modification of Destiny”に寄せたテキストです。
This is a review text for Yusuke SUGA’s solo exhibition “Modification of Destiny”.
https://leesaya.jp/exhibitions/modification-of-destiny/

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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
D’où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?

ゴーギャンはタヒチにその起源を求めた。しかし、現在、一つ目の問いの答えはコンピューターで演算されたDNA調査によって確定している。つまり、われわれはアフリカから来たのだ。そこから、わたしたちの祖先が拡散した道を、いまではGreat Jouneyと呼ぶ。従って、昨今騒がれている2045年問題のように、もし人類が新たな時代に突入するのだとしたら、わたしたちはもう一つのGreat Jouneyを開始することになる。しかし、わたしたちは本当に一つ目のGreat Jouney(グレート・ジャーニー)のDestination(目的地)に辿り着いたのだろうか?いまここが、わたしたちのDestiny(宿命)の終着点なのだとしたら、わたしたちの運命は悪夢だったと言わなければならないだろう。

いや、このDestinyは一つの可能性にすぎない。いわば、わたしたちは、数万年をかけて、Destinyの模型を作り上げようとしてきたのだ。ならば、もう一つの別の模型を、いまから作ろう。その始点が”Black modification head”だ。わたしたちが再始動する模型の制作行為は、もはや自然ではありえない。わたしたちは、わたしたちの顔に、人為的な改造を施すだろう。その皮膚は、一つ目のDestinyでわたしたちが持っていた、あの表面ではない。それは、眼触りな表面だ。そこでは、わたしたちの皮膚は身体と世界のSurface(界面)ですらない。それは、深さを持った三次元・平面なのだ。だから、須賀が作る皮膚はベルベットでできている。ベルベットの眼触り。平面の深度。毛羽立ったDestinyを、眼で、撫でろ。

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それは、一度目のGreat JouneyでMistakenされたものたちだ。

そう、もう一つのDestinyは、Mistakenされたものたちを必然化する。”G-Quadruplex(TypeA)”は、二重螺旋構造のDNAをコピーする際に生じる異形のタンパク質の表象だ。それは、コピーの失敗であり、模倣の失敗である。しかし、模倣に成功があるのだろうか?成功した模倣などあったのだろうか?模倣は常に失敗する。つまり、失敗こそが模倣の本来の姿なのだ。そして、失敗の中で、偶然に生じる均整を、わたしたちは「美」と呼んできた。だとするなら、必然的に失敗を誘発する四重螺旋は、美を必然化するのである。

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さて、この世界に従順に飼い馴らされてしまったわたしたちは、必然美を受け入れる準備があるだろうか?”Mustang(Artificial leg)”では、馬の足が機械化されている。部分的にサイボーグ化された馬の足だ。この世界にあって、わたしはこの足に奇妙な親近感を覚える。2020年、東京オリンピック・パラリンピック。馬鹿げたお祭り騒ぎ。馬鹿げた政治。馬鹿げたアート。

しかし、わたしは興奮している。そこには、未来がある。サイボーグが自然な身体を超える未来だ。近い将来、パラリンピック選手の記録がオリンピック選手の記録を抜くだろう。これは当然の帰結である。オリンピックではドーピングが問題になっているが、その定義ほど曖昧なものはない。わたしたちは常に身体を改造してきたし、誰もがいまでも身体を改造しながら生きている。たとえばトレーニングマシーンで、たとえば食事で、たとえばサプリメントで、たとえば義足で、たとえばスマートフォンで。人造(改造)人間の勝利は目前に迫っている。問題は、そこに快楽があるかどうかだろう。様々な改造を施した人間たちの饗宴に、観客だけでなく選手も快楽を覚えることができるだろうか。ここでも、皮膚が快楽を担保する。ベルベットの皮膚。平面でありながら深度のある皮膚は、わたしたちの快楽を、辛うじて保守する。

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展示室の最奥には、”Emperor (Juvenile A)”の影が掲げられている。歴代の天皇の「平均顔」である。たとえば「地元の顔」「業界の顔」など、「顔」という単語は象徴という意味でも使われる。したがって、本作品は文字通り「日本国民の顔」である。一方、英語のFaceという単語は、直面するという動詞としても使われる。ならば、本作を観賞するとき、わたしたちは「日本国民の顔」に直面していることになる。そのとき、わたしたちは「日本国民の顔」から疎外されているだろう。なぜなら、わたしたちが直面する複数の顔の中に、わたしの顔は含まれていないからだ。つまり、そこでわたしたちは他者としてある。ナルキッソスが泉に映った自らの顔を他者だと思ったことを思い出せば、わたしたちは文字通り、「日本国民の顔」を鏡として見ている。

またしても、わたしたちが制作するDestinyの模型は失敗するだろう。しかし、わたしたちが「日本国民の顔」を、自己の顔として受け取るなら、そのとき初めてアートは鏡の比喩を超えるのだ。

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そのために、Mother(母)はChild(子)を自らの顔から引き剥がす。鏡の比喩を超える延長された顔。その三次元・平面の眼触り。それを、レリーフと呼ぼう。須賀悠介はレリーフの作家だ。

いつからか、ぼくは、彼を、レリーファーと呼ぶようになった。