ポスト・トゥルース時代の芸術作品

English Edition → “The Work of Art in the Age of Post-truth”

初出『季刊じゃぽにか』, No.001, 2017, pp.4-8
©HANAFUSA Taichi
“ポスト・トゥルース時代の芸術作品”
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オクスフォード大学出版は、2016年のワード・オブ・ザ・イヤーを「ポスト・トゥルース」に決めた。[★1]“Word of the Year 2016 is…,” Oxford University Press, accessed May 31, 2017, https://en.oxforddictionaries.com/word-of-the-year/word-of-the-year-2016 オクスフォード社の定義によれば、「客観的な事実が世論形成に及ぼす影響力が、感情や個人的な信念への訴えよりも小さい状況を示す形容詞」である。真実に基づかない情報の拡散によって、いわゆるブレグジット(イギリスのEU離脱)やアメリカのドナルド・トランプ大統領が誕生したことを批判する際に多用された。

しかし、ポスト・トゥルース的な状況は特に新しい現象ではない。われわれは、ずっと前からポスト・トゥルースの時代にいた。

思想家の東浩紀は、『動物化するポストモダン』の中で、現代のオタクたちを「データベース的動物」と名指し以下のように書いている。[★2]東浩紀著『動物化するポストモダン』、2001年、講談社現代新書、p.115

そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。

データベース的動物たちは、唯一かつ真実の物語を求めていない。ただ、感情が動かされる=萌えることのみを求めている。そこで必要なのはデータベースだけだ。データベース的動物=オタクたちのデータベースは、東が「萌え要素」と呼ぶものだった。

インターネットが普及したいま、大衆にとってのデータベースが現れた。いまやワールド・ワイド・ウェブの情報が、萌え要素のように取り出され、各自のソーシャル・ネットワーク・アカウントのタイムラインに恣意的に並べられる。そして、タイムラインが彼らにとって真実となる。現代においては、タイムラインが真実の物語として現れているのだ。

オタクだけではなく、アーティストたちも早くからこの状況に応える作品を作っていた。中でも、もっとも先鋭的だったのがシンディー・シャーマンの真実に対する現実=リアルな作品群である。ハル・フォスターは、ラカンの理論を引用しながら、シンディー・シャーマンの狙いはまなざしと表象の主体のあいだにあるスクリーンを引き裂くことにあると書く。[★3]ハル・フォスター著(松岡新一郎訳)「現実的な物」(『Inter Communication No.19 Winter 1997』、1997年、NTT出版)、p50

今日ある種の現代芸術は、まなざしをなだめようとするこうした時代がかった指令を拒否する。それはまるでこれらの芸術によって、その鼓動する欲望の光輝(あるいは恐怖)のうちに、まなざしが光を放ち、対象が立ち現われ、現実的なものが存在すること、あるいは少なくともそうした崇高な状況を喚起することが望まれているかのようだ。この目的のために現代の芸術はスクリーンを引き裂く、ないしはスクリーンがすでに引き裂かれていることを示唆するように作用するであろう。シンディー・シャーマンの制作が機能するのはそこにおいてなのだ。

シンディー・シャーマンの作品に象徴的なように、現代の芸術においては、現実的なものが「表象の効果」から「外傷という出来事」へと転換したとフォスターは言う。シミュラークルしかない世界において、真実が信じられない以上、現実的なものへと回帰することは自然な成り行きだろう。シンディー・シャーマンは映画の出演者や災害の被害者に扮したり、グロテスクな人形を撮影したりすることで、外傷を写し撮ってきた。しかし、誰もが彼女のようにカメラを扱う技術を持っているわけではない。

現実的なものへの欲望は、そのまま精神病的な外傷として目撃されるようになる。特に日本では、多くの若者が自傷行為を行うようになった。目的は自殺ではない。身体を通して現実を確認するために、手首を切る。その行為を「リスカ」と略語で呼ぶほどラフに自傷行為が行われるようになった。

現実的なものへの欲望を埋めるもう一つの精神病的解決策が解離性同一性障害だ。もう一度、東の著作に戻ろう。[★4]東浩紀著『動物化するポストモダン』、2001年、講談社現代新書、p122

しかしポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただバラバラに共存させていくのだ。分かりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで生きていく、そういう術を学ぶのである。

このように解離的になることで、現実をサバイブする術を身に着けた集団がオタクと呼ばれる。

フォスターも東も、ラカンの理論に拠っている点で共通していることからも分かるように、ポストモダンの時代は、精神病の軽症化と、それに伴う患者の急激な増加の時代として顕現した。そして、アメリカが先陣を切ったあと、日本を含む世界中で、向精神薬の消費量が急激に拡大した。これによって、決して満たされることのない現実への欲望が精神病として表れても、とりあえず対症できるようになった。

換言すれば、解離の隙間が向精神薬によって埋められたのである。同時に、まなざしと表象の主体の隙間も埋められた。そのとき、ただひとつ残るものがスクリーンだ。現代においては、主体も、主体に先立つまなざしもなく、ただスクリーンのみが存在している。

そのスクリーンがスマートフォンである。ポスト・トゥルースの時代にあって、主体もまなざしも、真実も現実も、全てはスマートフォンのみにあるのだ。スマートフォンは私から見られる対象である。同時に、インサイトカメラから私を見る主体でもある。さらに、個人情報のつまったスマートフォンは自らのアイデンティティと同一化していると言うことができる。それだけではない。重要なことは、スマートフォンを使用するときのわたしたちの身体行為だ。スマートフォンを使用するとき、わたしたちは文字通りスマートフォンのスクリーンと一体化している。スマートフォンの特殊性は、スクリーンに直接触れることだ。ここにおいて、表象の王者だった視覚がその座から引きずり降ろされ、触覚がその地位にとって変わる。触覚の特徴は、視覚と異なり、距離がないことだ。まなざしと主体のあいだにあったスクリーンは、スマートフォンのディスプレイとわたしたちの皮膚の接触面として同一化する。スマートフォンのディスプレイはスクリーンであると同時に、わたしの皮膚なのだ。

この皮膚ほど現実的なものはないだろう。そして、皮膚としてのスマートフォンに流れるタイムラインは真実に満たされた感覚として受け取られる。しかし、タイムラインに流れる情報はそれぞれ異なっている。だから、真実が複数化されるのだ。ここにおいて、ポスト・トゥルースはオルタナティブ・ファクトとも呼ばれることになる。身体がそれぞれの現実として個別に存在するように、真実も複数化されたのだ。

ポスト・トゥルースの時代にあって、スマートフォンに奪われたわたしたちの皮膚を取り戻すことがカッティング・エッジに立つアーティストの目指すところだ。スクリーンを奪取せよ、と。

アートグループじゃぽにかもその一人である。もっとも象徴的な作品が「福島野菜スープ」だ。2014年のフリーズアートフェアにニューヨーク在住の日本人アーティスト荒川医が、福島産の野菜で作った野菜スープを無料で配布する作品で参加した。その情報を得たじゃぽにかは、放射線から身を守るために原発作業員が着る防護服を着用して、現地でスープを飲む画像をTwitter上に拡散した。彼らはただ画像を編集しただけで、本当に現地に行ったわけではない。しかし、日本国内では、じゃぽにかが問題行動を起こしていると炎上した。すぐに編集した画像だということが露見したが、嘘がばれてしまうことこそがこの作品のコンセプトだった。ポスト・トゥルースの時代にあっては、もはや嘘すら存在しない。日本と中国のあいだでさんざん議論される南京大虐殺問題のように、一方にとっての嘘は、他方にとっての真実である。ポスト・トゥルースの時代とは、真実だけでなく、嘘も消滅した時代なのだ。だから、じゃぽにかは誰にとっても嘘でしかない情報をタイムラインに押し込む。じゃぽにかがスマートフォンに流した画像をくだらない嘘だと罵り、スマートフォンを壁に投げつけるとき、わたしたちははじめて、ポスト・トゥルースから距離を取ることができる。そして、その距離によって、はじめて真実を見ることが可能になる。同時に、現実の身体としての主体が立ち現れるのだ。

Japonica 《FUKUSHIMA Crappy Collage #1》

Japonica 《FUKUSHIMA Crappy Collage #2》


その他、ポスト・トゥルース時代に対応する日本人アーティストの傾向を二つ紹介しよう。

決して見栄えがよいとは言えない伊東宣明と高田冬彦は、それにもかかわらず必ず自らの(ときには裸の)姿を映像作品の中に写す。そして、多くの場合、彼らは撮影スタッフを入れず自撮り棒を使用する。重要な点は、その距離である。画面に触れるのではなく、自撮り棒の中途半端な距離だけ自分の身体から距離を取る。この絶妙な距離が彼らの戦略だ。

Fuyuhiko Takata 《Afternoon of a Faun》2015-16

Nobuaki Ito 《A-to (Japan Ver.)》 2015

須賀悠介とHouxo Queは、スクリーンそのものを作品のメディウムにする。木彫でディスプレイを制作する須賀は、一度磨いた表面をひび割れたスマートフォンのように削る。ディスプレイの割れによって、スクリーンを現実的なものへと変化させる。Houxo Queはディスプレイの上に直接絵の具を擦り付け、無数の色彩を過剰に発光せることで、視覚を通して触覚を刺激する。彼らは光を有機的に使用することで、真実だけでなく、現実をも超越することを試みている。

Yusuke Suga 《Black Display_#01》 2017

Installation View, Houxo Que and Yusukesuga “Windows” 2016, Gallery OUT of PLACE TOKIO

どの方法が功を奏するか分からない。いや、全員が失敗するだろう。その失敗だけが、美術史に登録される。ポスト・トゥルースの時代にあって、アーティストは失敗を競い合う。失敗だけが真実だ。

References

References
1 “Word of the Year 2016 is…,” Oxford University Press, accessed May 31, 2017, https://en.oxforddictionaries.com/word-of-the-year/word-of-the-year-2016
2 東浩紀著『動物化するポストモダン』、2001年、講談社現代新書、p.115
3 ハル・フォスター著(松岡新一郎訳)「現実的な物」(『Inter Communication No.19 Winter 1997』、1997年、NTT出版)、p50
4 東浩紀著『動物化するポストモダン』、2001年、講談社現代新書、p122