空腹と栄養失調のあいだ

今日はぼくの個人的な政治観について書いてみたい。

ぼくは「政治とアート」というシリーズも企画しているし、SNSなどでもよく政治の話題を取り上げる。[★1]
しかし、誰もが政治的であるべきだとか、政治を語るべきだとか、政治について意見を持っているべきだとは考えていない。政治的に極端に見える発言をよくしているが、それを誰かに強要するつもりはない。それどころか、共有するつもりすらない。以前、自分にとって「政治は趣味」だと言ったことがある。半分はほんとうにそう思っている。ぼくにとって政治は、とても個人的な事柄だ。だからこそ、日常的に考えざるを得ない。

突然だが、テレビドラマの話をしたい。ぼくがこれまで見てきたなかで一番好きなテレビドラマはいしだ壱成主演の『未成年』(野島伸司脚本)だ。[★2]未成年 (テレビドラマ) – Wikipedia
明らかに全共闘運動やあさま山荘事件を題材にしたドラマなので、それだけでも十分、大文字の政治観が現れてしまっているのだが、今日は二番目に好きなドラマ『瑠璃の島』(成海璃子主演、森口豁原作)を取り上げることで、ぼくの小文字の政治観を書いてみよう。[★3]瑠璃の島 – Wikipedia

まず、『瑠璃の島』のあらすじを確認しよう。

親に捨てられて施設で育ち、人間不信に陥っていた少女・藤沢瑠璃(成海璃子)が、過疎化により廃校の危機に見舞われている小学校を存続させるために里子を探していた仲間勇造(緒形拳)と出会い、社会から捨てられかけた沖縄県八重山の孤島へ渡る。島の住民との出会いを通し、成長していく少女の姿を描く。(ウィキペディアより引用)

施設にいた瑠璃(成海璃子)を引き取るために、勇造(緒形拳)は瑠璃の母親・藤沢直(西田尚美)に会いに行く。直は瑠璃が好きにすればよいと答える。瑠璃は母親がそう言うのも仕方ないよ、と笑う。そんな瑠璃に勇造が語りかける。

そんなこと笑うな。まだ11歳じゃないか。親に気なんか使わなくていいんだよ。子どもはさ、もっとわがままでいいんだ。自分の気持に正直でいいんだ。怒ったり喚いたり、泣いたり叫んだりしていいいんだ。自分の気持をごまかすことなんかないんだよ。

瑠璃は俯き加減に笑う。

したよ。昔。お母さん行かないで、帰ってきてって。何度も何度も泣いて、怒って、喚いて怒鳴って。でも結局、お腹が空いただけだった。捨てられるのはもう慣れた。おわり。

何度見ても泣いてしまう。この場面を思い出しただけで、ぼくは泣いてしまう。母親に捨てられること。なんとか母親にすがりつくこと。裏切られても裏切られても、子どもは母親を捨てられない。捨てられることには慣れたと言い聞かせることはできる。でも、空腹を受け入れることはできない。親に捨てられることは、空腹でいることなのだ。

ぼくは子どもの空腹をテーマにされると弱い。それは児童相談所のケースワーカーだった母親から空腹に関するいくつかの話を聞いたことがあるからなのだが、その前にもう一つ、今度は角田光代の小説『八日目の蝉』を見てみよう。[★4]八日目の蝉 – Wikipedia

第0章
秋山丈博の愛人であった野々宮希和子は秋山宅に侵入していた。眠っていた赤ん坊(秋山恵理菜)を一目見るためだったが、赤ん坊が笑いかけたのを見て衝動的に誘拐する。

第1章
希和子は「薫」と名づけた赤ん坊とともに逃亡を始め、まず事情を知らない親友の手を借りた。その後、立ち退きを迫られている女の家での滞在や、偶然に遭遇した女性だけで共同生活を送る「エンジェルホーム」に所持金をすべて手放して入所。さらにエンジェルホームで出会った共同生活者の手助けを得て、小豆島に逃亡し、安心感を得た生活を送ったものの、1枚の写真がきっかけで希和子は逮捕された。
(ウィキペディアより引用)

希和子は逮捕されるとき、誘拐して3年間自らの子どもとして育てた薫が朝ごはんを食べていないことを警察官に告げる。

その子は朝ごはんをまだ食べていないの。

そうだ、彼女は私を連れていく刑事たちに向かってたった一言、そう叫んだのだ。

その子は、朝ごはんを、まだ、食べていないの、と。

自分がつかまるというときに、もう終わりだというときに、あの女は、私の朝ごはんのことなんか心配していたのだ。なんてーーなんて馬鹿な女なんだろう。私に突進してきて思い切り抱きしめて、お漏らしをした私に驚いて突き放した秋山恵津子も、野々宮希和子も、まったく等しい母親だったことを、私は知る。
(角田光代著『八日目の蝉』2011年、中公文庫、p.359)

ここで、角田は母親であることの「馬鹿」さを、自分の心配よりも、子どもの空腹を心配することとして描いている。『八日目の蝉』はドラマ化、映画化されており、特に映画版で希和子を演じた永作博美の「その子はまだ夕飯を食べていません」と泣く場面は素晴らしいのでぜひ見てほしい。

ぼくは子ども空腹の場面が出てくると自動的に涙が出るようになっているらしい。その理由は分かっている。先に書いたように、ケースワーカーをしていた母親に聞いた話から、子どもの空腹に、震えるほどのリアリティを感じるからだ。

母がある子どもを担当することになった。その子は、授業中にずっと走り続けていた。母が「なんで座っとらんの?」と尋ねた。すると、その子は答えた。「走っとったら、お腹が空いとるのを忘れられよぉ。」

授業を聞きたくないわけではない。走りたいわけでもない。誰かの邪魔をして目立ちたいわけでもない。ただ、空腹を紛らわしたい。そのために、その子は走っていた。

何もしなくても、腹は減る。誰にでも平等に訪れる空腹。しかし、空腹を意識する必要のない人もいれば、空腹に苦しみ続ける人もいる。子どもの場合には、その差が極端なかたちで現れる。空腹という平等ほど、残酷な現実はない。

ぼくはSFCと通称される慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで4年間を過ごした。慶應義塾大学だけあって、家庭の資本レベルは極めて高い。SFCの同窓会に行くと、その社会的地位の高さと、生まれの良さに驚愕する。会社社長の子どもだと聞いてもぜんぜん驚かない。

さて、SFCのキャンパスには看護学部もあって、保健体育が必修になっていた。その授業で、SFCには栄養失調が多いことを知った。超エリートでお金持ちの子どもが通う大学でなぜ栄養失調が多いのか?

SFCは湘南という名前がついているが、山の中にある。最近は近くにコンビニもできたが、当時は近くに食品を買える店が皆無だった。生協や食堂はあったものの、学生数がそれほど多くないため、小規模なものでしかなかった。加えて、SFCは24時間オープンな大学だ。夜通しグループワークや作業をすることを「残留」という用語で呼ぶほど、日常的に行われていた。ところが、食品を買える場所はない。何より、SFCの恵まれた教育環境での作業は楽しい。

そう、空腹を忘れるほどに楽しかった。SFCに栄養失調が多いのは、お金がないからではない。空腹を忘れるほどに裕福だからだ。

ある子どもは、空腹に耐えられず教室を走り回る。ある子どもは、生活があまりに充実しているために、空腹であることを忘れて、栄養失調になる。

ここに書いたことはぼくの個人的な経験でしかないし、ぼくは誰かを代弁する立場にはない。そして、いまのぼくは空腹でも栄養失調でもない。ぼくにとっての政治は、そのあいだにある。