3331 Art Fair 2016でわたしが「シルバー・プライズ」を差し上げた阿児つばささんが返答テキストを書いてくれました。まさかの手書き。。。文字起こしもしましたので、ぜひご覧下さい。
花房太一が書いたテキストはこちらをご覧下さい。
3331 Art Fair はなぷさ大賞
レセプションはなかなかの盛り上がりを見せていた。東京にはなかなか来る機会が無いけれど、花路里のために来た。花路里をつくって花路里を販売する。花路里という美術を売りにきた。
(白いシャツも持ってきてたけど、かせげるかなと思って、お金のにおいのためにミニーマウスのトレーナーを着ていく。道中テロ行為に近いきもちでソワソワした・・・・)
お腹が減ったしドリンクチケットも2枚あるけど花路里の前に人がいれば花路里をする。すきをみてたまごといちごたべる。ジンジャーエールのむ。
アートフェアってなんや。誰のためのなんや。コレクターってなんや。プライズってなんや。Artについては諸々考えるけど、それでもやっぱりなんやねん。なんやねんというかどないやねん。
3331 Art Fair – Various Colletors Prizes –
いろんなかたちのアートフェアの場があるんやろうけど、それでも、3万円とかそういう額の作品ばっかり売れてるけど、なんやねん。3331はまぶしく真っ白です。看板の電気をつなげるために壁に小さい穴をあけてもらった。Artistちゃうんかい。Collectorちゃうんかい。
花路里とは、祖母がTにぽろっと言った言葉で、そもそもただの石ころのようななにかだったのだけど、石ころが「ただの何か」な訳無い訳で、膨大な情報量が目の前にある訳で、Tたちの目や見る行為聴く行為動く行為が段々と、「画像化」を許容しすぎていなかったか。海を渡ってやって来るはずのものごとを海を渡らず見ることが出来る。ちゃんと「みえてる」か?生身のものの前に一分立つことは、全くもって別のものがみえてる。画像の前に一分も立てない。わざわざ二本の足で立っていないかもしれない。
ものってしゃべる。人ってだまっててもしゃべる。小さな対話がいくつもいくつも生まれろ。世の中真っ暗になるな。自分のすこし外に世の中がいくつも転がっていることに気付け。
その中で自分が「ただ生きる」ことが可能なのだ。石ころもやっぱりただの石ころだったりする。

遠藤水城氏推薦の3作家。左から、神馬啓佑、阿児つばさ、本山ゆかり。 photo by Hyogo Mugyuda

花路里の様子

花路里の販売
もう一度、阿児つばさへの返信
シルバー・プライズなんてお金を払うわけでもなく、勝手に言うだけの賞にこんなテキスト(しかも手書き!)まで書いてくれてありがとう。素晴らしいテキストでした。やはりあなたには才能があります。そんなあなたは東京のアート業界を垣間見て、すごく落胆したでしょう。ぼくはすでにこの状況に慣れてしまって、落胆することに疲れてしまって、自らすすんで不感症になっています。対して、あなたのような敏感な方が、しっかりと批判してくれたことを喜ばしく思うと同時に、状況を憂うことばかりに疲れないでほしいと思います。アーティストは生きているうちに評価されなくてもいいと思います。いや、評価されたほうがいいに決まってますが。海外に行ってもそんなに変わりません。あなたの作品は日本でこそ生まれ得た作品だと思います。少なくとも日本で一人、あなたの作品がとても好きな人間がいることを、たまに思い出してくれるととても嬉しいです。きっとぼくはまたあなたの「石ころ」に躓くでしょう。[★1]“なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。”
ローマ人への手紙しかし、自らの意思で「石ころ」に躓くことはできません。たまたまに、偶然に、突然に。それが、必然であることを。[★2]“石には世界がない。
動物は世界に窮乏している。
人間は世界を形成する。”
[★3]”石は意思 後に跡
意思は石 後に跡”
『後に跡』
作詞 磯部正文
作曲 磯部正文/工藤哲也/平本レオナ
唄 HUSKING BEE