日本の美術を取り巻く状況論で「日本にはアートマーケットが存在しない」と指摘されることがよくある。確かに、アートマーケット(特に現代アート)にお金が回っていないと感じることは多い。しかし、今でも銀座では数億円の印象派絵画が売れているし、オークション会社の業績もそこそこ好調だ。つまり、日本アートマーケットはあるのだ。とは言え、これを統計的に証明するのは難しいと言われている。芸術作品の統計で信用できると一般的に言われているものは、貿易統計である。[★1]財務省貿易統計作品であれなんであれ、輸出入の際には、いわゆるインボイスが必要となるので、必ず税金がかかる。これを元に、だいたいの取引額を計算することができる。その数字は貿易統計を見れば分かる。しかし、国内市場では、そうしたデータが極めて取りにくい。芸術作品の価値はあってないようなもので、買い手が納得すれば、100円のものが1億円で売れてしまう。そもそも、金額が極めて分かりにくいのだ。そして、裏市場のほうが巨大であるのもまた事実である。マネー・ロンダリングとまでは言わないが、それに近いことが行われていることは周知のことだろう。しかし、そんな世界は、現代アートをやっているような我々には無縁の世界である。(垣間見ることはあるが。)だから、やはり「日本にはアートマーケットが存在しない」ということは、留保はあれど、事実である。

さて、そろそろ私の放言を書き始めよう。

私は銀座のアートディーラーの元でアルバイト(社長のカバン持ち)をしていたことがあって、そのときにクリスティーズNYやサザビーズNYで、数十億の取引が行われる現場を前から二列目の席で「観戦」したこともある。また、ギャラリーとも付き合いがあるので、ある程度マーケットのことは知っているつもりである。その私が、「日本にはアートマーケットが存在しない」という事実を換言すれば、「日本にはよいコレクターがいない」となる。これが肝である。私はたまたま、若手コレクターといわれる人と付き合いが多かった。アート界に顔を出すようになったとき、すでに一匹狼というか、まあとにかく今と同じで居場所がなかったのである。そんな私と付き合ってくれたのは、コレクターだった。そのことには今でも感謝している。しかし、コレクターを近くで見てきたからこそ、彼らを批判しなければならない。言ってしまおう。

日本のアートマーケットが育たないのは、コレクターがアホだからである。


多くのコレクターに会ってきたが、アートワールドの中にいて、彼らほど勉強しない、成長しない者はいない。彼らは自分たちに元来審美眼が備わっているとでも思っているのだろうか、本当に学ばない人たちだ。コレクターの中にも当然階層があって、Art Review紙のpower 100に選ばれるようなコレクターたちは数十億レベルの作品を購入する。その下に順々にコレクターがいて、日本の現代アートコレクターと自称している人は、だいたい数十万レベルの作品を購入している人たちだ。しかし、本来彼らもコレクターの階層を登っていかなければならない。コレクターもまたアーティストやギャラリストと同じように競争に参加しているのだ。その競争で勝ち残るには、当然訓練が必要だ。将来を見越して若いアーティストに投資し、その中から値上がりする作品をできるだけ早く購入する。その作品が値上がりすれば、コレクターの実績となり、社会的な名誉となる。できるだけ競争相手が少ないうちによい作品をたくさん集めるには、とにかく勉強が必要だ。人脈を広げなければならないし、世界中のマーケットを見なければならないし、何よりも歴史を知らなければならない。ところが、日本のコレクターは自分が購入できる範囲の作品しか見ない。若手ギャラリーにばかり出入りしてただ酒をくらい、御託を並べて数十万の作品を購入し、ギャラリーの裏話などに異様に精通していながら、アートバーゼルには行ったことがない、というコレクターにあなたも会ったことがあるだろう。彼らは何度、東京国立博物館に行ったことがあるだろうか。断言できるが、彼らには見る目がない。勉強していないのだから当たり前だ。つまり、彼らはコレクターとは呼べないのだ。

では、彼らは何を求めているのだろうか。

彼らは「便所藝術」を欲しているのだ。本来、芸術作品を鑑賞する行為には「不安」がつきまとう。たとえば、ウォーホルの作品を考えてみよう。−−一見、妖艶なエロスをアピールするマリリン・モンローの記号だ。ところが、幾重にも重ねられたマリリンの線と、強烈な背景のコントラストを凝視していると、図がぐるぐると動き出す錯視の実験画像のように、目が回ってくる。私が見ているものは記号ではない。記号の狂気なのだ。マリリンの亡霊が現れてくる。亡霊から逃げなければならない。しかし、あまりの美しさに逃げられない。−−と、いささか調子に乗って書いてしまったが、そういう不安に襲われるものだけがアートと呼ばれるにふさわしい。岡本太郎が言ったように「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」のだ。[★2]
ところが、日本のコレクターたちが購入するのは、うまくて、きれいで、ここちよい作品だ。その作品が飾られる場所は、昔から便所と決まっている。「便所藝術」は肛門を弛緩させるためにある。便所で不安になっていたら、文字通り「アートもクソもない」のである。日本のコレクターたちは、自分を安心させてくれる作品を購入する。そして、作品に自分を認めてもらおうとするのだ。それが自分の声だとも気づかずに。彼らが欲しているのは、「便所藝術」から得られる放尿と脱糞の快感である。

日本では「便所藝術」が売れる。約10年間、ギャラリーを巡り、コレクターやギャラリストと話し、マーケットを見てきた今のところの結論がこれである。しかし、それはアートと呼べるだろうか。「便所藝術」は排泄物の蒸気に晒されて、徐々にカビに侵食されていくだろう。そして、最期にはゴミになるのだ。その儚さを美しいと呼ぶことも否定しない。しかし、私はそれをアートとは呼ばない。

ここに宣言する。私は「便所藝術」に反対する。それはアートではない。

References   [ + ]

1. 財務省貿易統計
2.