3つの展示について書きます。トランプ現象とくらべて書きました。
JohnYellow|PERCENTAGE/PERSONIFICATION
場所:float
会期:2016年8/1(月)-7(日)、13.14 20.21 27.28(土日)
http://f-l-o-a-t.info/
第五回春のカドグループ展
場所:あをば荘
会期:8月1日(月)~8月7日(日)
http://awobasoh.com/?p=1079
竹下昇平・新井五差路 二人展「すべて眺めのいい、」
期間:8月1日(月)~7日(日)
場所:spiid(東京都墨田区京島3-30-6)
https://www.facebook.com/events/1219765638034255/
スカイツリーの近くにオルタナティブスペースが増えている。墨田区はなかなか面白いところだと思う。町工場が有るかと思えば、異様にデカイ花王の工場があったり、道端にはみ出した洗濯物を避けながら歩いていたらこれまた異様にデカイ都営住宅が姿を現したり、隅田川の沿岸を整備しているのはいいけれど水が汚いから誰も歩いていなかったり、日本の風景ここにありといった趣である。
スカイツリーができても遠くから見るだけだったのだが、重い腰を挙げて押上駅に到着。たまに後ろを振り返って鉄塔(てっとう、この表現がぴったりだ)を確認しながらめっちゃ暑い中を歩く。ポケモンGOは必要ない。
さて、3つの展示をまとめて書く。ちゃんと理由がある。全ての展示が藝大・美大の卒業生ではない「作家」を中心としていること、そして絵画作品の展示である点で共通しているからだ。その他にも「パープルーム」や「絵画検討会2016」などなど、最近絵画を描きたがる傾向が見られる。ぼくはここにトランプ現象と同じものを見る。
戦前のアヴァンギャルド以降、いや正確に言えばセザンヌ以降、絵画への疑問はつきものだった。タブローの登場そのものですら、それまでの平面作品への対抗であったと位置づけることもできる。絵画は常に権威の象徴であり、他方に権威に挑戦する運動がある。戦後、アメリカがグリーンバーグと手を組んだ国家戦略でアートの覇権を取得したのも絵画を復権させたことによる。そして、インスタレーションやリレーショナルアートは復権した絵画への抵抗だった。
あまりに大雑把な把握だろうが間違ってはいない。少なくともこれくらいは「常識」の範疇だろう。しかし、正規の教育を受けていない「作家たち」はこの歴史にすら無知である(ように見える)。
なぜ彼らは絵画を描きたがるのか?そもそも絵画には歴史があるのだから、勉強しなければ描けるものではない。素人が簡単に手を出すと痛い目を見る。藝大・美大でも正統に絵画を描く場合、技術がモロバレになってしまうので、手を出すのは危険だと思うのがふつうだろう。そして、そう思うべきだと思う。要は絵画の歴史へのリスペクトを持っていれば、そうそう簡単に新しい絵画、なんて言えないわけだ。
さて、なぜ彼らは絵画を描きたがるのか?恐らく、これは絵画と呼ぶべきではなく、絵(え)と呼ぶべきだ。よって、ここからは絵と書く。彼らはなぜ絵を描きたがるのか?
第一に、その容易さである。ペンと紙があれば絵は描ける。お手軽なわけだ。次に、絵は見やすい。重厚な彫刻などは見るのが面倒だ。それは単純に身体の動きを必要とする(回遊性)からだ。絵はじっとしていても見れる。これらの2点については、実証できる。彼らの作品は小さい。なぜ小さいのか。小さいほうが描き易く、見易いからだ。
さて、最後の点が重要である。なぜ絵なのか。それは絵がもっとも権威があるからである。もっと一般的な表現に言い換えれば、絵はカッコいいのだ。絵を描いていれば、なんとなくアーティストっぽく見える。
「何をしている方ですか?」
「絵画を制作しています。」
自称リベラルなわたし(極左とも極右とも言われる)から見れば、彼らは歴史を忘却して、安易に分かりやすい権威にすがろうとする大衆でしかない。そう、トランプやルペンに熱狂する大衆そのものなのだ。彼らの行動を否定したいのではない。しかし、批判する権利くらいはあるだろう。もうちょっと面白いものを見せてくれよ、少なくとも1冊くらいは美術の本を読もうよ、それくらいは言ってもいいと思うのだ。[★1]ほんとうのところ、わたしが一番落胆するのはこうした絵画の歴史を踏まえない作品群を評価し、購入するコレクターたちなのだが。。。彼らを取りあげてアートの最先端のように語るアート関係者については落胆すらしない、恥ずかしいと思うだけである。
反便所藝術宣言
さて、その中でもJohn Yellowは面白い。もちろん作品自体はおもしろくない。でも、「彼」の行動はおもしろい。
John Yellowは奥村直樹くんである。そうあの伝説のオルタナティブスペースdesk/OKUMURAを運営していた「奥村直樹ノ友達展」の奥村くんだ。「友達展」のときにあをば荘で個展をすると聞いていたのだが、個展の企画が流れたと後々きいた。代わりにJohn Yellowといういかにもニューエイジっぽいペインターが個展をしていたことは知っていた。しかし、見に行くはずもない。ぼくは奥村くんの作品が見たかったのだ。その後、3331 Art FairでJohn Yellowのペインティングを見てなかなかウマイじゃーんと思っていたら、奥村くんとばったり会った。ぼくのことを避けるようにして帰りそうになっていたところを大声で引き止めて話した。そのときも知らなかった。John Yellowが奥村くんだとは。いつ知ったのかも忘れてしまった。たぶん、ぷさゼミの軽井沢合宿だったように思う。そう、奥村くんはぷさゼミの生徒だった。一番できの悪い生徒だった。ぷさゼミでは、各回の担当者が決まっていて、奥村くんはドーキンス『利己的な遺伝子』[★2]
の担当だった。しかし、前日になってLINEがきた。
「花房さん、ごめんなさい。ぷさゼミ辞めます。」
笑った。もちろん自主的にゼミを辞めることは許されない。恥をかく経験もゼミの重要な勉強の一つだ。翌日、無事ゼミは開催された。
話がそれた。John Yellowである。なんとも適当な名前だ。経歴も適当で、「2013年〜詩人」とか書いてある。怪しい。しかし、Johnは確実にキャリアを積んでいる。すでに2回の個展を開催しているだけでなく、なんとなんと東京ワンダーサイトのワンダーウォール展に入選したのだ。バカウケである。ペンネームでの出展も認められているだろうから、問題はないのだろう(たぶん)。しかし、明らかに人を小馬鹿にしたような名前の男が入選したのだ。そして、何の賞も取れなかった。これまたバカウケである。奥村くんの予定では、John Yellowがワンダーウォール賞を受賞して、誰だ誰だと話題になったところにさっそうと奥村直樹登場ということだったらしい。大失敗である。しかも中途半端に入選しているところがまたいい。失敗を成功にすることもできないという意味で二重に失敗している。しかし、わたしは思うのだ。これがアーティストの正しい姿ではないかと。
絵(え)は個人的すぎる。先述したように、「アウトサイダー」が絵を好むのは、絵を描くことがとても個人的で親密な制作行為だからだ。ぬるぬるとした絵の具と真っ直ぐな絵筆。毛に染みこんだ絵の具をキャンバスに擦り付ける快感。Accessory Painting、あるいはコンドーム・ペインティング。絵はそのまま〈わたし〉なのだ。[★3]「いい絵」試論-or “Accessory Painting”-
と、勘違いすることが容易なメディウムなのである。しかし、奥村くんはどうだろう。奥村くんであって奥村くんでないJohn Yellow。どこにもいないJohn Yellow。二重に失敗したJohn Yellowという戦略。「作者の死」から何十年も経て、未だに作家性を二重化する時代遅れのJohn Yellow。〈ふつうにウマイ絵〉を描くJohn Yellow。何の主張も持たず、何の創造性もないJohn Yellow。でも、ぼくの想像力を無限に刺激し続けるJohn Yellow。
はっきり言って大好きだ。
でも絵画としてはダメ。しかし、少なくともダメだと言及できるレベルまでは来ている。布施英利先生の「絵画が分かるシリーズ」を引けば、絵画は色と構図とパースがあれば成立する。[★4]この点では、奥村くんの絵画は、絵画の歴史的なコンテクストを引き受けていることは間違いない。同時に、どの点から見ても創造性はない。敢えて言えば、白いドラえもんは記号が加えられている分、深みは増している。とは言え、いまのところまだ「いい絵」の範疇にある。今後を期待したい。
さて、ほとんど否定と言ってよいまでに批判してきたが、一つ発見があった。「第五回春のカドグループ展」にキャプションのないインクジェットプリントが展示されていた。山崎由紀子さんがアトリエに貼り付けている資料だった。これが一番いい「作品」だったと思う。思わず出てしまう作り手の欲望。ぼくは抑えきれない欲望が見たいのだ。それがぼくの欲望だ。
PS.
3つの展示を見る前日、神奈川県立白山高等学校の2年生の展示を見た。こちらはほとんど絵画はなかった。少なくとも彼らに絵画や権威へのあこがれはない。この点において、わたしは彼らに期待したいと思った。できることがあれば応援したい。
17歳の表現 〜神奈川県立白山高等学校美術コース2年学外展示会〜
場所:大倉山記念館
期間:8月3日〜7日
www.facebook.com/events/515338908661297/