ストレンジャーによろしく

会期:8月20日(金)〜年9月12日(日)の金・土・日・月開催
場所:金沢アートグミ、ほか金沢市内13ヶ所
時間:10:00〜18:00
料金:1000円(フリーパスチケット)
主催:ストレンジャーによろしく実行委員会
参加アーティスト
足立雄亮 石毛健太 磯村暖 内田望美 M集会 海野林太郎 大山日歩 小田陽菜乃 川田龍 北原明峰 吉川永祐 國分莉佐子 小林美波 神農理恵 スクリプカリウ落合安奈 酒々井千里 副島しのぶ 髙橋銑 多田恋一朗 谷口洸 ナルコ 林菜穂 布施琳太郎 堀田ゆうか 宮崎竜成 村岡佑樹 村松大毅 MES 本山ゆかり モノ・シャカ 安井鷹之介 山内祥太 山田悠太朗 湯浅万貴子 渡辺志桜里 渡邊洵
https://www.sutoyoro.com/

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アーティストの多田恋一朗が企画する「ストレンジャーによろしく」。第一回目は群馬県太田市(2014年)、第二回目は愛知県名古屋市(2015年)、そして今年2021年第三目が金沢で開催されている。今回は多田に加えて、谷口洸、石毛健太もディレクションに参画し、最大規模の展示となった。

アート関係者には金沢21世紀美術館が開館して依頼、頻繁に訪れる場所となった金沢だが、21世紀美術館の開館当初は北陸新幹線が開通しておらず、必ず京都での乗り換えが必要だった。なぜ、こんなに回り道をするのだろうと思いながら到着する白江龍三設計の金沢駅には、乗り換えなしの新幹線で到着しても未だに驚く。思わずアイフォンのカメラを構えて撮影したあと、すぐ近くにある金沢市公共シェアサイクル事務局に向かう。

日付が変わるまでレンタルができて電池がなくなったら乗り換えも可能な電動自転車と「ストレンジャーによろしく」のチケットをあわせて割引価格の2,000円。公共のシェアサイクルと連動している点だけみても、行政や地域との関係がしっかりと築けていることが分かる。20代の若手アーティストがここまでの企画をやりとげたことにまず関心してしまう。

何度も来たことのある街なので、だいたいの規模は分かっている。まずは、もっとも遠くにある芸宿へ向かう。この金沢芸術工芸大学の学生が運営する古いアパートへは、昨年、髙橋銑の展示を見に行ったばかりだ。そのときはバスで移動したが、今回は30分弱の道のりをゆったり電動自転車で移動する。兼六園の横を通り抜けるときだけやや厳しい坂を登る。日本三名園の中で兼六園は一番、森っぽいと思う。

ちょっと早く到着してしまい、まだ展示の準備ができていないとのことで、歩いてすぐの元喫茶店ダージャでの布施琳太郎「別れのワープスタビライザー」を見に行く。監視員は「見回り中」とのことで、ちょっと迷いながらも勝手に拝見。複数のソファや机が雑然と、しかし整然と配置されている。赤と青の淡い光の中では距離感が失われる。そして、ところどころにスプレー・ペインティグがある。バーカウンターには短い詩が一遍。宮城県石巻市で同時期に開催されている「リボーンアート・フェスティバル2020-2021」で、布施は防空壕を洞窟に見立てて展示していた。彼と私の興味関心に共通点は非常に多いが、その一つが洞窟壁画だ。しかし、おそらく彼の関心は私のそれとは決定的に異なっている。布施の洞窟は閉ざされている。だから、コロナ禍に反応して制作された「隔離式濃厚接触室」でも、作品としてのウェブサイトを見ることができる鑑賞者は同時に一人と限定されいた。彼は徹底的に「孤独」なのだ。だから、すでに閉店され、閉ざされたままの喫茶店は、大きな開口部を持つ石巻の防空壕よりも彼の作品を際立たせていた。布施は作品から他者を取り除こうとしている。それは同時に主体を失うことでもあるだろう。しかし、創られた主体性も、到達不可能な他者性もまったく感じられないままにインターネット・ネイティブとして育った以上、他者なきファイン・アートを肯定して見せる必要がある。あまりに素朴で、純朴で、朴訥とした作品が、布施の魅力だ。[★1]入室以前的《濃厚接触室》──布施琳太郎について
https://hanapusa.com/text/fuse1.html

布施琳太郎《別れのワープスタビライザー》

歩いて芸宿に戻り、103号室のグループ展示を見たあとに101号室の絵画を中心としたインスタレーション、多田恋一朗「ブラックアウト」を見る。101号室はおそらく芸宿のたまり場のような場所で打ち上げやイベントなどに使用されているのだと思う。たくさんの書籍や家具と一緒に、人が集っていた気配がある。そこに、多田と友人の二人が描かれた葉書サイズの絵画が写真立てに入れられてところどころにある。そして、多田が「ゾンビキャンバス」と呼ぶシェイプド・キャンバスが屹立している。「絵画は死んだ」と何度も言われてきた。そして、アーティストたちは、その言葉を受け入れるにせよ、否定するにせよ、生きた絵画を制作しようとし続けてきた。しかし、多田の絵画は違う。「絵画は死んだ。いや、生きている。ただし、ゾンビとして。」生きている絵画。ただし、死体として。多田と布施の作風が大きく違うにも拘らず、二人が長らく共鳴しているのは、この姿勢だろう。彼らはまず、時代を受け入れる。過去を固辞する保守派でもなく、時代に反抗する革新派でもなく。そのとき、彼らはどんな表情をしているのだろう。101号室を出るとき、入り口の裏に最後の作品があった。そこには真っ黒な多田が一人、青空の前に立っていた。[★2]多田恋一朗

多田恋一朗《ブラックアウト》

電動自転車で兼六園の坂を下って21世紀美術館すぐ横の箔一ビルへ。5階建てのビルすべてを使用しての展示。一階には5メートル超えの大作、川田龍「The sea of fertility」がある。日本語に訳せば「豊穣の海」というタイトルだが、描かれているのは、大きな紙、あるいはビニールシートである。やや撓んだモチーフは、まず高松次郎の「布の弛み」を思い出させる。四隅を持ってふわっと持ち上げ、重力に任せて落下させて制作される弛み。ピンと張られ、タッカーで固定された画布が弛む。しかし、同時に思い出させるのは、高橋由一「豆腐」である。油一は赤いリンゴでも青いぶどうでもなく、白い豆腐を描いた。そう言えば、岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」でも、画面からせり出すような坂道はカンカン照りの下で、真っ白にも見える。川田はこれからきっと、洋画を描いていくのだろうと思った。[★3]

川田龍《The sea of fertility》

上階に登っていくと多くの作家の作品が展示されているが、中でも目を引いたのは北原明峰「幽霊をさがす」だ。金沢芸術工芸大学出身者らしく、初見だったが一見してそのいびつさに目を引かれた。まちなかでよく見る風景のようでいてなにか違う。コンセプトを読むと、ずっと金沢に在住している中で、どんどん変化していく街の記憶を描いたものらしい。フラットなタッチで描かれたそれらの絵画は、たしかに現実にそのような場所があったのだろうと思われるものの、決定的に現実感がない。しかし、それは過去を記憶で描いているから現実感がないのではない。もともと、現実感などなかったのだ。全ては幽霊として存在している。だから、じっくりと幽霊を凝視する。あるようでないもの。わたしたちは、きっと幽霊を探し続けている。

北原明峰《幽霊をさがす》

川田龍くんとちょっとお話してから、箔一ビルをあとにする。金沢21世紀美術館の正面にある喫茶おあしすへ。作品を見せて頂いて食事も飲み物も注文しなかったので「ありがとうございました」と声をかける。しかし、喫茶のママは耳が遠いらしく、お客さんに「もっと大きい声で言わないとだめよ」と言われる。ママが出てきて、お客さん二人を含めてなんとなくおしゃべり。その中のお一人は、東京の大学に通われていたらしい。能登の庄屋の娘さん(現在80歳)らしく、親戚が購入した徳川家の領地の跡地に下宿されていたらしい。それが駒込とのことで、わたしも元駒込在住者として話が盛り上がる。「会えて楽しかったわ」と言われる。わたしもとても楽しかった。これこそ、地域アートの醍醐味だ。もっと話したかったが、引き際が大事とばかりに再び電動自転車で移動していたら、雨が降り出す。ローソンで購入したかっぱを着て再び移動。

石田ビル地下での海野林太郎セレクション「ミニミニシアター」がぶっとぶレベルで素晴らしい。ナルコ、山内祥太、副島しのぶの3名の作品で、おそらくすべて見たことがあったのだが、3作品連続して見ることでさらによかった。
ナルコ「Hund, meiner Seelen Wonne」2014。死者と出会うために行う死後結婚。亡くなった犬と出会うために樹海に向かう。そして、誰もが幼いころに遊んだであろう少し歩いて首を振り、わんわんと吠える犬のぬいぐるみを大量に稼働させる。樹海でしかない薄暗さと画面からも感じられる湿気、そして死者の気配の中で繰り返される機械音。死者と生者の出会いとはここまで苛烈なものなのか、あるいは、結婚がここまで苛烈なのか。人間の業を可視化され、突きつけられる。そして、思わず悟りへの道を探ろうとする点から、現実に戻ってきて、ただ呆然とする。もしかしたら、これがメディテーションかもしれない。只管打坐。

ナルコ《Hund, meiner Seelen Wonne》2014

続いて山内祥太「大海嘯」2016。瀬戸内国際芸術祭において桃太郎伝説の鬼ヶ島と言われている女木島で制作された作品だ。大波に揺れるフェリーの実写映像と3D映像、そして、CGの鬼から必死に逃げる実写の山内が映し出される。やがてフェリー内部の実写映像に実写の山内が並び、フェリーの窓からはCG映像が見える。鬼ヶ島伝説の鬼は明らかに海賊のことだ。しかし、鬼は神に近い存在でもある。元々、島流しと言われるように離島は世界から隔離された場所であったが、それ故に崇められる対象でもあった。その遠さと近さが、大波という現実を介して、映像に現れる。[★4]山内祥太

山内祥太《大海嘯》2016

最後に副島しのぶ「Blink in the Desert」2021。ストップモーションで制作されたと思われる映像作品である。この作品だけは明確な物語がある。ある日、砂漠に住む一人の少年(僧侶)が一匹の羽虫を殺してしまう。その罪に苛まれていると、向こうから直立歩行する白い像が現れる。少年は像と同居を始める。それでも苦しみ続ける少年。精神も肌もぼろぼろになる。そこに現れるぼろぼろの羽をもった羽虫。もう死ぬのかと思い持ち上げる。すると、その羽虫は少年の手から飛び立っていく。こうして書くと単純極まりないように思われる。実際、そうだろう。しかし、現場で見ると全く違う印象を持つ。それは上記2作品との関連が想起されるからだろう。つまり、芸術は、ときに宗教性を帯びてしまうのだ。

副島しのぶ《Blink in the Desert》2021

続いて、また電動自転車でソシアルレジャックビルへ。壁にボブ・マーリーが描かれている点で、これは!!!と思わせる飲み屋ビルだ。4階と2階が展示スペースとして使用されている。まずは4階へ。
海野林太郎「みればそうなる/はっきりとよくみえる」。実写映像を元にしたゲームのような映像作品と、その映像から切り取られた画像が配置されている。画像は鉄板にプリントされており、裏側には巨大なモーターが取り付けられている。そして、1日に5回、大きな音を建ててブルンブルンと部屋ごと揺れる。タイトルとは違い、ぜんぜんはっきりと見えない。でも、わたしたちは常に体を動かしながら、目を動かしながら作品を、そして世界を見ている。そして、きっと世界も同じように、その身体を揺らしながらわたしたちを見ている。この作品を制作した人間と、上記の「ミニミニシアター」3作品をセレクトした人間が同一人物なのだから驚く。この意味の分からなさが、海野作品の奥深さを生んでいる。

海野林太郎《みればそうなる/はっきりとよくみえる》

林菜穂「バード・オブ・パラダイス・フラワー」。バーとして使用されていた空間に、くすんだ色の絵の具で描かれた絵画が配置されている。時折見られるラッピングされた絵画は、ゴミ置き場で拾ったものらしい。そして、バーカウターの奥には小瓶に入った固形物が青い光に照らされて整然と並べられている。これらはすべて自宅で採取した植物から制作した染料(絵の具)だ。窓際に置かれた小さな鉢の中で、「4127恋するパンジーあふれ咲き(ほほえみ)596285」の小さな芽が出ていた。異種混合され、遺伝子を組み替えられ、記号化された種から出た芽に、小さな自然の生命を感じてホッとする。わたしは、この矛盾に微笑みで応えることができるだろうか。

林菜穂《バード・オブ・パラダイス・フラワー》

石毛健太「From August 20」「Until September 12」。宇宙船のように浮かぶ銀色の風船。この風船がすぐ近くの木場町広場にも一つあった。その風船を一人の男性がぽんぽんと叩いていた。この風船は、あるいはそのままどこかに飛び去り、あるいはソシアルレジャックビルへ移動させられる。確かに、見上げたあの風船は、宇宙船だったかもしれない。あるいは夢だったかもしれない。石毛史上最高にエモくてロマンチックな作品だった。

石毛健太《From August 20》《Until September 12》

林と一緒になぜかうな重を食べてからまた移動。石黒ビルへ。元々薬局だったらしい地下の廃墟で3名の作品が見られる。
髙橋銑「そこから一番遠い場所」では、鑑賞者に向かってただ強烈な光が照射されている。まっくらで湿気の多い空間なので、すぐには気づかないが、それはまっすぐな水平光線だ。わたしはルネサンスとは、すなわち水平線であると考えている。大航海時代、人間はただ水平線の向こうを求めて、水平に水平に海を移動した。この水平の想像力がルネサンスの遠近法を生んだのだと確信している。では、この水平線が向こう側から照射されたものならどうだろう。わたしたちは、海や空気中の水蒸気に反射する光を見て水平線を認識する。しかし、もし、水平線が反射ではなく、発光だったら。いま、わたしは発光するディスプレイを見て、無意識に水平線を見ている。つまり、ディスプレイをまるでルネサンスが発明した絵画のように、遠近法の元に見ている。だから、最新のMac OS、海に浮かぶ島「Big Sur」を美しいと感じる。しかし、一体私は何を見ているのだろう。そこに海はない。水平線はない。遠近法もない。それならば、あえて、全身をディスプレイの発光に浸してみよう。そうして、わたしが光になって、スペクトラムを解体したい。そんな欲望に駆られるのだ。[★5]髙橋銑


髙橋銑《そこから一番遠い場所》

元銭湯の梅の湯。小林美波「お前を還す方法」。脱衣所に雑然と散らばるインスタレーションの中に大量の火炎瓶が置かれている。それぞれに「お前を還す方法」「まるごと火炎瓶」「他人ごと火炎瓶」などと書かれたラベルがはられている。その他にも、政治的な内容のものもある。なぜ、抵抗勢力は火炎瓶を使用するのだろう。バンクシー「花束を投げる男」の元画像も火炎瓶を投げる男だろう。火炎瓶は抵抗の、革命の象徴だ。しかし、これほど原始的な武器もないだろう。おそらく、洞窟壁画を描きはじめたときには、すでにホモサピエンスは炎を投げていただろう。ならば、火炎瓶に象徴される革命とは過去への憧憬なのかもしれない。しかし、それでは革命とは呼べない。革命を、未来への革命へと革命するには、未来の火炎瓶を制作しなければならないのだろう。

小林美波《お前を還す方法》

最後に、横安江町広場へ。深田拓哉「ここはぼくたちのもの(そしてそうじゃない)」。売地と書かれた岩が吊るされている。初見ではコンクリートかと思ったが、岩から掘り出したものらしい。なんと700キロ以上もあるらしく、これを運搬するためにわざわざ複数の運転免許をとったとのこと。なるほど、この岩は墓石である。あらゆる土地は誰かの所有物になっている。しかし、土地の所有という概念ほど、奇妙なものはない。そして、所有概念は、土地の所有によって初めて明確なものとなったのだった。そして、所有概念こそがインターネット後の大格差社会の核心でもあるのだから、それをひっくり返す必要があると考えるのも当然だろう。ならば、まず所有の墓を作ってしまえばよい。それも、ひっくり返った墓だ。墓は地面に埋まっているにせよ、地面に立っているにせよ、地面と接している。しかし、この作品は地面から浮いている。この売地はどの土地をも指し示していない。どこにも所有できる土地などないのだ。ところが、この作品を見た近隣住民から、広場が私有地として売りに出されたのかという苦情が多数寄せられた。そのため、作品の一部変更を余儀なくされたそうだ。この顛末まで含めて完成されている。深田はまだ学生だが、今回の「ストレンジャーによろしく」でもっともストレンジャー(異邦人)だったのは彼だろう。

深田拓哉《ここはぼくたちのもの(そしてそうじゃない)》

電動自転車を使えば十分一日ですべてを回ることができた。20代のアーティストたちがこれだけ集まって、しかも自主運営で大規模な展示を開催したことをまず評価したい。さらに、新たな作家との出会いもあった。きっとアートはいつも、どこへ行ってもストレンジャー(異邦人)だけど、いつも、どこで見ても、楽しい。それはなぜかと問われたら、彼らはきっとこう答えるんだろう。「太陽が眩しかったから。」[★6]

References

References
1 入室以前的《濃厚接触室》──布施琳太郎について
https://hanapusa.com/text/fuse1.html
2 多田恋一朗
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4 山内祥太
5 髙橋銑


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