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布施琳太郎(アーティスト)、水沢なお(詩人)[★1]《隔離式濃厚接触室》
https://rintarofuse.com/covid19.htmlhttps://rintarofuse.com/covid19.html

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コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大による活動自粛は、人が多く集まるミュージアムや、日本ではあまり一般的ではない欧米スタイルのシェイクハンドやハグが好まれるギャラリーに壊滅的な影響を与え続けているし、これからも与え続けるだろう。これまでのような、コミュニケーションに変化が求められることは確実だ。このような状況にあって、アーティストの活動に注目が集まってよいところだし、いまこそ作品が生まれる時代だという気がするのだが、そのような話はついと聞かない。東北大震災のとき、アーティストは素早く活動を開始し、多くの名作が生み出された。しかし、今回の災禍にあって、どうもアーティストが活動をしている様子が見えてこないし、たぶん作品もあまり制作されていないのではないかと思う。少なくとも、コロナ禍に関する作品はあまり生まれないだろうし、生まれたとしても、それほどの価値を有していないものになりそうだ。それどころか、コロナ禍に対するアーティストとアート業界の活動は目を瞑りたくなるほど悲惨だ。ある映像作家は自らの作品を課金制でネット公開し、大物アーティストたちは、サインなしのポスターを販売しチャリティー活動を行う。これらの活動が悪いとは言わない。どんどんやったほうがよいと思う。しかし、それがコロナ禍の社会状況や、ウイルスと人間との関係や、これからの世界に向けた批評性を有しているとは到底言えない。要するに、それらは作品ではない。つまり、アーティストたちは、コロナに無関心なのだ。それならば徹底的に無視して、これまで通りの制作を続けるか、あるいは状況を凝視して、次の活動につなげるために無言でいることのほうがずっとアーティスらしいふるまいだし、今後の作品にも生かせるだろう。

さて、そのような中で、唯一、この作品には言及しなければならない。彼のみがコロナ禍にあって、唯一作品を提出できた。それが布施琳太郎の《隔離式濃厚接触室》である。東京芸術大学映像研究科博士課程に在籍中のエリート・アーティストである布施琳太郎は、この状況に即座に対応する作品を制作した。すくなくとも、制作しようと画策し、一つのフォームに落とし込んだ。これだけで、彼の作品について言及する理由は十分だろう。彼以外に、このスピード感をもって対応できたアーティストは他にいないのだから。

《隔離式濃厚接触室》は、一度に一人ずつしか見ることのできないウェブサイトである。これは、コロナウイルス感染防止のために流布した「三密(密閉空間、密集場所、密接場面)」[★2]厚生労働省ウェブサイト
新型コロナウイルス感染症への対応について(高齢者の皆さまへ)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/kaigo_koureisha/yobou/index_00013.html
を避ける場所としてのウェブサイトである。一人でサイトを見ているとき、そこは密閉空間であり、密集場所であり、密接場面であるということだろう。他の誰かがウェブサイトを閲覧している場合には、「他の鑑賞者が展覧会を鑑賞しています。時間を置いて再度アクセスしてください。」と表示される。そのため、観賞者は何度も同じURLにアクセスを繰り返すことになる。そして、何度も弾き返され再度のアクセスを求められる。

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わたしも何度もアクセスを試み、何度も弾き返された。おそらく100回以上はアクセスするためにスマートフォンをタッチしただろう。そして、ある朝、偶然に、ウェブサイトを閲覧することができた。

ウェブサイトの画面は二分割されており、左側には加工されたグーグル・ストリート・ビューの画像がある。スマートフォンを移動させれば全天球の画像を見ることができる。右側には詩人・水沢なおの詩「シー」が横スクロールで表示される。(PCで閲覧した場合には、上部に水沢なおの詩が、下部にストリート・ビューが表示される。)GPSが機能すれば自分がいる場所の近くのストリート・ビューが表示される仕様になっているのだと思われるが、あまりうまく機能していないらしく、わたしの場合は見知らぬ場所の画像だった(SNSで共有された画像を見ると多くの観賞者がわたしと同じビューを見たようだ)。そこは日本の緯度経度原点[★3]である。測量法により規定されたこの場所は東京都港区麻布台二丁目にある。グーグル・ストリート・ビューで検索すれば分かるが、ここはロシア大使館の真裏である。ストリート・ビューを見たときに、もっとも違和感がある警察官の姿はロシア大使館を警備するために常駐している警察官だ。

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緯度経度原点は、おそらくGPS(Global Positioning System)を象徴している。三密のポイントは「密」ではない。密のあとに続く「空間」「場所」「場面」である。したがって、三密とはスペースの問題なのだ。しかし、そもそも、現代に生きるわたしたちにスペースなど残されていただろうか。われわれに与えられているのは、一点にポインティングされる、ポインティング・デバイス(指!)によってポイントされるPositionなのだ。[★4]2007年1月9日。革命が起こった日だ。スティーブ・ジョブズがiPhoneを発表した。この日、わたしたちの身体はポインティング・デバイスになった。
”We’re going to use the best pointing device in the world. We’re going to use a pointing device that we’re all born with — born with ten of them. We’re going to use our fingers. We’re going to touch this with our fingers.”

わたしたちは、スマートフォンのGPSをONにして、グーグル・マップを見ながらあるスペースを目指す。そのとき、GPSはわたしたちのどこを、どのPositionをPointしているのだろう。わたしの身体のどこを。わたしの精神のどこを。わたしの欲望のどこを指そうというのだ。わたしの欲求のなにを誘うというのだ。GPSのポジションをスペースへ変えること。おそらく、布施が目指したのはそこだろう。だから、水沢なおの詩を必要とした。詩はポジションではない。詩はスペースだ。

わたしは右側の白い背景に浮き上がった文字を横スクロールする。水沢の詩が身体のスペースを回復させることを企図しているのは明らかだ。「たまご」が「きみ」へと換喩的に滑る。「平たい胸の真ん中に割れ目があった」、その割れ目から「黄色い卵」が「次々にきみの割れ目から這い出していく」。インターフェイスとして現れるたまごが、そのままの形できみ(君、黄身)へと分身し、切り裂かれた身体から外部に出ることで、スペースを生む。「シー」は、以下の二行で終わる。

わたしはそれを見ていた
ずっと見ていた

対象と接触していては、そのものを見ることはできない。スペースができることで初めて、わたしたちは「見る」ことができる。しかし、このスペースは、先に述べた画面の左側のGPSから逃れられているだろうか。この点についてはとりあえず保留にせざるを得まい。その希望の萌芽が見られることは、少なくとも現代アーティストと詩人のコラボレーションが目指す「ポジション」としては正解だった。しかし、コラボレーションが目指すべきスペースとして成功したかと問われれば、否と答えるしかない。今後の両者の活動に期待したい。

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ここで、素朴な疑問に戻ろう。タイトルの《隔離式濃厚接触室》とはなにか?あるいはどこか?

まず、《隔離式濃厚接触室》内部のウェブサイトには接触はあるだろうか。これは観賞者の多くが感じたものと想像するが、予想以上に接触感がなかった。たとえば、詩との接触を感じるものでもないし、ストリート・ビューによってストリートと接触しているとも感じないし、物理的に触れているスマートフォンの画面への接触感覚も希薄だ。つまり、実は《隔離式濃厚接触室》で濃厚に接触しているのは、濃厚接触室の内部ではないということになる。

では、わたしたちはどこで濃厚に接触したのか?それは、《隔離式濃厚接触室》への入室以前である。ただ、これは当然である。実のところ、わたしたちはあらゆる「室」=部屋と濃厚接触することはない。部屋の内部に入ってしまえば、家具に触れることはあれど、壁を触ることはほとんどないだろう。先に述べたように、《隔離式濃厚接触室》においても、ウェブサイト内部にあるのはスペースだった。しかし、入室以前には部屋と濃厚接触している。多くの場合、ドアノブをひねるという形で。あるいは、中にいる人を呼び出すためのノックという形で。同じように、《隔離式濃厚接触室》では、入室以前に通常以上の濃厚接触がある。繰り返されるタッチ(=ノック)がそれである。ウェブサイトに同時に一人しか入ることができないという仕様により、観賞者は、《隔離式濃厚接触室》のドアを何度もタッチ(=ノック)することになる。偶然に入室できるときが来るまで、タッチ(=ノック)が続けられる。つまり、《隔離式濃厚接触室》とは、スマートフォンそのものを指していたのだ。わたしたちは、どんなに活動を自粛され、ロックダウンによって自宅待機を命じられても、スマートフォンやマウスやタッチパッドを触ることはやめられない。それどころか、コロナ禍の外出自粛とリモートワークによって、これらへのタッチ、接触は急増している。つまり、《隔離式濃厚接触室》とは、スマートフォンやマウス、タッチパッドをタッチし、クリックする私たちの身体への批評なのだ。

布施は、《隔離式濃厚接触室》のコンセプトを以下の文章で締めくくっている。

まず僕が望むのは、展覧会における体験を回復させることである。それが本来的に隔離の性質をもつことを最大限活用することで、完全な隔離を実現し、人々を「新しい孤独」へと誘うための社会的な形式を提示すること——あなたのあなた自身との濃厚接触に奉仕するために、僕はこの展覧会を実行する。[★5]https://rintarofuse.com/covid19.html

「新しい孤独」とは、第16回芸術評論募集(美術手帖)で提出した論文のタイトルでもあり、彼のアーティストとしてのコンセプトでもある。

この抵抗によって獲得されるものを、僕は「新しい孤独」と名付ける。それは、西洋近代的な主体と客体の往還や、イメージとシンボルの二層構造によるインターフェイス的主体には依存しない。主体に依存しない孤独が「新しい孤独」である。そして最果タヒにおける「知らないを知る」とは、主体なき身体の「触覚的変質=新しい孤独」なのだ。
つまり来たるべき芸術とは、孤独――近代的主体やインターフェイス的主体――ではなく、消去された主体と浮遊した身体によって形式や形態(=洞窟やタイムライン)を進化的に変質させ「新しい孤独」を生産するものだ。
孤独によって芸術が生産される時代から、芸術によって「新しい孤独」が生産される時代へ。
それが芸術の新しいテーゼである。[★6]https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19775

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これらのテキストと《隔離式濃厚接触室》の作品を並べて、《隔離式濃厚接触室》入室以前の無数のタッチこそが「新しい孤独」であると考えてみよう。たしかに、そこには主体は存在しない。正確に言えば、主体は《隔離式濃厚接触室》への無数のタッチによって換骨堕胎されていく。タッチするたびに、わたしたちは、わたしたちの感覚を、欲望を、時間をスマホに譲り渡してしまう。フラクタル図形のように、わたしたちの主体はスマホをタッチするたびに、表面積だけが指数関数的に増殖し、体積が指数関数的に減少する。徹底的に表面的な自分。世界が平面的なのではない。わたしが平面的なのだ。[★7]石田英敬と東浩紀(津田大介司会)の対談で触れられた内容を引用させて頂いた。現在、視聴ができないため正確性を欠くが、主体の分割、去勢の問題として語られていたと記憶している。また、視聴できるようになることを期待して。
【生放送】石田英敬×津田大介×東浩紀「脳とメディアが広告と出会うときーー『新記号論』刊行記念イベント第2弾」 @nulptyx @tsuda @hazuma
https://live2.nicovideo.jp/watch/lv319379182

そして、ここで、布施が洞窟壁画への偏愛を語ることも理解できるようになる。洞窟壁画は数万年前に描かれた作品だ。それらの「作品」は、何万年もの間、誰にも見られることがなかった。とても、孤独に存在していた。そして、ある日、突如として「発見」され、多くの人の目に晒されることになる。ところが、人間が持ち込んだカビ(!)により、劣化が進み閉鎖される。そうして、わたしたちは入室以前の状態に戻る。そう、この発見され、閉鎖されたあとの孤独こそが、布施が言う「新しい孤独」なのだ。わたしは思う。布施は誰にも作品を見られたくないのだ。ただし、そこに、その部屋の中に作品は存在する。それでいいではないか。たしかに、主体はないかもしれない。それでも、入室以前に、あなたにはわたしの部屋をノックする身体があるのだから。

《隔離式濃厚接触室》とは入室以前の接触を批評する作品である。しかし、そこは誰も入室したことのない部屋ではない。そこには誰かがいた。今もいるかもしれない。だから、わたしたちはこの身体を譲り渡してでもノックを続ける。平面的な身体を譲り渡し続けろ。そこに、作品はある。入室以前ではない、「入室以前的」な部屋を作ること。[★8]その思わせぶりな態度は、ダサい。でも、そのダサさが布施の魅力であることもまた疑い得ない事実なのだ。この作品が「作品かどうか」なんてわたしには分からないし、分かる必要もない。ただ、これから布施が展開するであろう入室以前的展示室を、ぼくはノックし続ける。

(花房太一)

References

1
2 厚生労働省ウェブサイト
新型コロナウイルス感染症への対応について(高齢者の皆さまへ)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/kaigo_koureisha/yobou/index_00013.html
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4 2007年1月9日。革命が起こった日だ。スティーブ・ジョブズがiPhoneを発表した。この日、わたしたちの身体はポインティング・デバイスになった。
”We’re going to use the best pointing device in the world. We’re going to use a pointing device that we’re all born with — born with ten of them. We’re going to use our fingers. We’re going to touch this with our fingers.”
5 https://rintarofuse.com/covid19.html
6 https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19775
7 石田英敬と東浩紀(津田大介司会)の対談で触れられた内容を引用させて頂いた。現在、視聴ができないため正確性を欠くが、主体の分割、去勢の問題として語られていたと記憶している。また、視聴できるようになることを期待して。
【生放送】石田英敬×津田大介×東浩紀「脳とメディアが広告と出会うときーー『新記号論』刊行記念イベント第2弾」 @nulptyx @tsuda @hazuma
https://live2.nicovideo.jp/watch/lv319379182
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