ポスト美術団体の世代
あなたの知らないニューカマーアーティスト100
2016年12月号の美術手帖の久しぶりの若手アーティスト特集だった。特集名は「あなたの知らないニューカマーアーティスト100」。この特集が掲載された美術手帖が発売されてすぐに、わたしは「『美術手帖』が知らない真実のニューカマー・アーティスト」というイベントを行った。[★1]西田篤史編集長 pundit’ reception Vol.2 失敗工房 presents
『美術手帖』が知らない真実のニューカマー・アーティスト
http://hanapusa.com/info/newcomer.html特集の内容に疑問を感じたからだ。
まず、「あなたの知らないニューカマーアーティスト100」というタイトルに大いに疑問があった。国内唯一の現代美術専門誌と呼ばれることもある美術手帖にとって、ある世代や潮流に名前をつけることは非常に重要仕事の一つだ。責任と言ってもよい。しかし、「ニューカマーアーティスト」とは単に新人を指すに過ぎない。新人の中から何らかの傾向を引き出したり、共通するテーマをまとめあげることが編集者の仕事であるはずだ。この特集名はその責任を放棄しているように見える。実際、編集長の岩渕貞哉氏は巻頭のEditor’s noteで以下のように述べる。[★2]岩渕貞哉「Editor’s note」p.7(『美術手帖』2016年12月号)
なので、客観的な評価や淘汰はこれから。それでもまずは、舞台に上がってもらう。
「舞台」が美術手帖誌面を指すのだとすれば、そこにはもはや「客観的な評価や淘汰」がないことになる。美術手帖は「客観的な評価」を放棄するのだろうか?そもそも、ここに掲載された100名のアーティストは美術手帖編集部が依頼した推薦者によって選定されている。それは「客観的な評価や淘汰」ではないのだろうか。
先の引用の前に岩渕氏は以下のようにも述べている。[★3]岩渕貞哉「Editor’s note」p.7(『美術手帖』2016年12月号)
以上を踏まえて、今回心がけたのは、この特集に出ることで作家としての覚悟が決まったり、誌面を親に見せたらもうすこし応援してくれるようになる、そんな作家を多く紹介すること。そのため推薦者は全国の大学の先生等にお願いして、身の回りの作家を数人ずつ上げてもらった。
誌面に掲載する作家の選定を「全国の大学の先生等」にお願いすることは編集者の無力の告白だろうか。あるいは、作家を選択する際に生じる責任の放棄だろうか。加えて、わたしはイベント当日に登壇者によって指摘されるまで気づかなかったのだが、大学の先生を推薦者とすること、そして親に見てもらえるような誌面を作ることは、営業のネタバラシである。大学の先生に書いてもらえばその大学からの広告を得やすくなる。また、親に見てもらえるような誌面を作れば、その親が雑誌を購入してくれる。多くの親は、天下の美術手帖に掲載された子どもを自慢するために、一人で何冊も美術手帖を購入するだろう。
これ以上、美術手帖の揚げ足を取るようなことはやめよう。わたしは美術手帖の復活を願っている。だから、批判していることを編集部の皆様にもご理解いただければ嬉しい。[★4]わたしの他に誰もこのような形で批判しないことが、美術手帖への期待の薄さを表している。実際、この特集に掲載されている「ニューカマーアーティスト」の家に何冊の美術手帖があるか調査してみればよい。わたしの経験では、わたしたちの世代くらいまでは定期的にBTを購入して熟読していたが、「ニューカマーアーティスト」世代はほとんどゼロに近いのではないかと思う。ここでは、イベント前のわたしのツイートをいくつか転載して、本題に移りたい。
BT最新号で、僕が気になるのはこのコラム&トーク。コミュニティの話ばっかじゃん。ぜんぜん面白くないよ。これじゃあコミュニティ・デザインとか地域アートの議論と同じじゃないですか。そして、何よりも僕たちにとって死活問題なのは、美術手帖がサバイブしてくれるかどうかですよ。 pic.twitter.com/8Vly30xW0E
— HANAFUSA Taichi (@hanapusa) 2016年11月21日
美術手帖の皆さんは、アーティストがサバイブできるかどうかの前に、美術手帖を「現代アートの専門誌」としてサバイブさせることを考えて頂きたい。それだけがアーティストをサバイブさせるためにみなさんができることですよ。
— HANAFUSA Taichi (@hanapusa) 2016年11月21日
コミュニティなんってほっといても勝手にできます。実際そこらじゅうに様々なコミュニティができている。そして、制作を続けるやつは勝手に続けます。彼らは金持ちになりたくてアートやってるわけじゃないでしょう。彼らは面白いことやりたいんですよ。BTにはその部分を取り上げて欲しい。
— HANAFUSA Taichi (@hanapusa) 2016年11月21日
ポスト美術団体の世代
冒頭で特集の名称を批判した。運動や時代を作るには暴力的であっても一つの強い呼称をつける必要がある。ダダもシュルレアリスムももの派もそうだ。美術手帖が名付けを放棄するのであれば、わたしが喜んでその責任を引き受けよう。
「ポスト美術団体の世代」
わたしが特集を組むなら、現在の若手アーティストの傾向をそう名付ける。
美術団体という言葉はもはや死語かもしれない。しかし、日本の近代美術を担ってきたのは美術団体だ。日展を筆頭として、現在でも東京都美術館と国立新美術館では多くの美術団体展が開催されている。このテキストを読んでいる方はほとんど素通りしているだろうが、この二つの美術館は美術団体の展覧会を開催するために作られた。企画展も開催しているが、ほとんどの展示室が美術団体で埋まっていることを思い返してほしい。いまでも美術団体は健在だ。
いわゆる「現代アート」が美術団体と関係することはいまではなくなってしまったが、戦前のアーティストはみな美術団体に属していた。あの岡本太郎も文部省美術展覧会(現在の日展)から離脱して結成された二科会に所属していた。前衛芸術であるところのシュルレアリスムも独立美術協会や美術文化協会という美術団体によって担われていた。[★5]美術文化協会(足立元解説、artscape”Artwords”より)
http://artscape.jp/artword/index.php/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E6%96%87%E5%8C%96%E5%8D%94%E4%BC%9A
美術文化協会ウェブサイト
http://bibun.jp/このような美術団体に所属せず活動を始めたのは戦後世代(1930年生まれ以降)のアーティストである。1970年の東京ビエンナーレ「人間と物質」展(中原佑介キュレーション)も正式名称は「第10回日本国際美術展」であり、その前身は「美術団体連合展」という美術団体の民主化を目指した展覧会だった。[★6]「人間と物質」展 | 現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A8%E7%89%A9%E8%B3%AA%E3%80%8D%E5%B1%95
日本国際美術展(コトバンクより)
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%B1%95-162163そして、「美術団体連合展」が「日本国際美術展」に発展した事実から伺えるように、戦後美術は戦前の美術団体批判の上に成立してきた。[★7]日本国際美術展、通称東京ビエンナーレについては以下を参照。
花房太一著『戦後日本美術の国際性ーー日本国際美術展をめぐって』(季刊「じゃぽにか」に転載予定)結果的に、現在では美術団体は旧態依然としたありきたりな美術作品を制作する「日曜画家集団」と認識されるに至っている。
このような美術団体のことを美術手帖に掲載されたニューカマーアーティストたちはほとんど知らないだろう。そして、知らないがゆえに、彼らは美術団体を反復することが可能になっている。
どういうことか。
ここからは、美術手帖特集内の「新世代アート・サバイバル」の論考を引きながら確認しよう。先に美術団体が「日曜画家集団」だと書いた。中尾英恵は「日曜画家」を称揚する。名和晃平氏のアトリエSANDWICHのテクニカルディレクターを長年務めたあと独立した藤崎了一氏、結婚を機に制作から遠ざかっていた山本麻紀子、大学院試験に落ちてから制作をやめていた松下まり子、ファッション会社勤務で制作を離れていた久門剛史の4名を取り上げて以下のように述べる。[★8]中尾英恵「人生の舵を取るーー制作を再開した作家たち」p.99(『美術手帖』2016年12月号)
本コラムで伝えたいことは、制作を再開することが正しいということではなく、自分が思ったときに人生の舵を取る勇気や可能性、芽生えた情熱を思いっきり燃やしてみるということである。
素朴だ。極限まで素朴だ。わたしは彼らを「日曜画家」と名指すことで、彼らを貶めたいのではない。あくまで、現代アーティストという(幻想の)イメージから、彼らは遠くにいるということを指摘したい。生きていくために作品を制作するのではなく、生きていることがアートになっているのでもなく、ただ自然に、素朴に、彼らは作品制作を再開した。彼らが日曜日に制作しているかどうかは知らない。しかし、彼らの制作に対する態度を「日曜画家」と呼べることは可能だろう。
中尾が挙げた4名は専門的な教育を受けているが、梅津庸一が主宰するパープルームは素人集団である。[★9]梅津庸一「美術運動のオリエンテーション」pp.90-91(『美術手帖』2016年12月号)
平等であれ、ということではなく、もっと違った手続きを踏んで、いわゆるドロップアウト組が普通にアートワールド(内輪)に参画する必要がある。もっと切実にサバイブしているプレイヤーこそが美術の担い手として当事者であるべきなのだ。
ここで時代とシンクロする「当事者意識」を梅津は強調しているのだが、ここではパープルームという「美術運動」の担い手がアートワールド外のドロップアウト組だということを確認しよう。パープルームとは素人集団なのである。梅津は以下のように述べる。[★10]梅津庸一「美術運動のオリエンテーション」pp.93(『美術手帖』2016年12月号)
正直、パープルーム予備校生の美術家としての一般的な意味での実力はたいしたことはない。(中略)美術とはそもそも作家がつくる造形物やコンセプトの強度を品評会のように品定めしてもらう場ではなく、美術という器を口実に、溢れ出る熱情、生き様に狂っていくもうひとつの現実ではなかったか?
奇妙なことに、中尾も梅津もアートに専念して場合によっては人生をも棒に振ってしまうリスクを犯す専業アーティストではなく、素人的に作品を制作する者にこそ美術制作の本体があるのだとする点で共通している。素朴に美術を制作する態度。確かにそれは美しいかもしれない。しかし、そこからわたし(筆者)は排除されている。わたしは制作をしない。ただ見て、評価を下す者だ。この観賞の排除は、岩渕がEditor’s noteで述べたことと合致している。[★11]岩渕貞哉「Editor’s note」p.7(『美術手帖』2016年12月号)
なので、客観的な評価や淘汰はこれから。それでもまずは、舞台に上がってもらう。
長々と素人的な制作者について見てきたが、この「日曜画家」に主体性を見出すことは美術団体ととてもよく似ている。
二科会を例にみていこう。[★12]公益社団法人二科会ウェブサイト
http://www.nika.or.jp/top/index.html二科会が主催する展覧会・二科展に出品するに出品料が必要になる。出品作のなかから特選・入選が選出される。詳細は不明だが、何度か入選すると会員に推挙される。会員は一定の会費を支払う。そして、何度か入選したり特選を得たりすれば、会友という上位会員のようなものになることができる。[★13]二科会に所属し何度も入選している工藤静香も会友になるにはかなりの時間を必要とした。
「工藤静香、『二科展』で会友推挙に決定「長い道のりでした」」(ORICON NEWS)
http://www.oricon.co.jp/news/2077687/full/さらにその上に理事会があり、理事長がもっとも大きな権力と権威を持つ。構造は分かっていただけたと思う。そして、工藤静香さんなど芸能人が出品していることからもうかがえるように、二科展のような美術団体に出品するのは日曜画家なのだ。実際、二科展の会員は絵画部で177名、彫刻部で58名、会友が絵画部294名で、彫刻部44名だが、2015年の100回展の搬入点数を見ると絵画部2,978点、彫刻部65点、デザイン部1,313点、写真部17,600点で会員数を大幅に上回っていることが分かる。[★14]第100回記念二科展入選者統計
http://nikaten.com/nikaten_gl/information/tenranjouhou/nika100/toukei100.htmlつまり、出品者の多くの出品者は「日曜画家」なのだ。そして、この日曜画家たちが、少数の作家が専業作家を資金的に支える構造ができあがっている。考えてみてほしい。みなさんは、美術団体所属のアーティストの個展を見たことがあるだろうか?このテキストを読んで頂いている現代アートに関心のある皆さんは、見たことがない方のほうが多いと思う。実際、美術団体のお偉方は、個展を開催する必要はない。美術団体の理事会としての収入があったり、出品者が買い支えたりしてくれるのだ。
この構造は何かに似ていないだろうか?わたしは、クラウドファンドに似ていると思う。美術に関心のある多くの素人が、団体展への出品によって会員や会友に作品を見てもらえることと引き換えに、出品料を支払う。場合によってはもっと高額を支払って会員や会友の作品を購入する。見事なクラウドファンディングだ。
では、なぜこのようなシステムが生まれたのだろうか。これには日本の美術教育事情が関係している。日本では、美術教育が制作教育に偏っていると指摘されることが多い。逆に鑑賞教育は手薄だ。結果、日本の美術好きは多くの場合、美術を観賞するよりも、美術を制作することが好きな人のほうが多くなる。そして、このマジョリティであるところの制作好きから資金を得るシステムが美術団体には備わっているのだ。少数の美術鑑賞好きよりも、多数の美術制作好きをターゲットに制作することは理にかなっている。
しかしながら、制作に偏った美術団体からは一定の評価を前提とする観賞が予め排除されている。たしかに、権威を持った理事会はある。会員や会友といったヒエラルキーもある。しかし、彼らはあくまで制作の専門家であって観賞の専門家ではい。結果的に、美術団体は作品の質を欠いた権威だけが跋扈する集団になってしまいがちだ。
では、なぜこのような美術団体に人は集まるのだろうか?そこでは美術団体のコミュニティの一員であるという承認を調達できるからだ。美術という装いはある。しかし、作品には新奇性も高い技術もない。ただ、承認のネットワークがあるだけだ。
ここで、美術手帖に戻って、上妻世海のテキストを見てみよう。[★15]上妻世海「制作の共同体へ」p.96(『美術手帖』2016年12月号)
つまり、そこには肯定的/否定的にかかわらず、ネットワークの中でどれだけの関係性を織り込んでいるかが、実在の条件なのである。それが人であっても作品であっても、人間と人間の相互牽制的な関係を織り込むことによってのみ可視化される。
上妻は先に上げたパープルームや中尾が上げる4名よりも少し下の世代(とは言え10歳も離れていない)を例に上記のように述べる。そして、彼らを「趣味の共同体」ではなく「制作の共同体」と名指す。上妻は、この「制作の共同体」の目的を「ともに作る」ことだとするのだが、何を作るのかは定かではない。文脈から読み取るに、おそらく「制作の共同体」の目的は「ともに共同体をつくる」ことである。よって、この「制作の共同体」は自己言及的な構造を持っている。
そして、当然のごとく、美術団体はそれを先取りしている。美術団体の大御所作家の作品は一般の目に触れることは少ないが、かなりの高額で売買されている。1,000万円を超えるものも少なくないと聞く。ところが、作家が亡くなると作品の価格は暴落する。一般に、作家が亡くなると、その作家の作品数が決定するため価格が高騰するのだが、美術団体は全く逆である。これは何を意味しているのか。それは、美術団体が「美術団体を存続さえるために」あるということを意味している。換言すれば、出品者や会員や理事会は「ともに美術団体をつくる」ために活動しているのだ。加えて、「会友」という名称が象徴しているように、美術団体はコミュニティへの帰属意識が極めて強い。実際、複数の美術団体に属している作家はほとんどいない。あくまで一つの美術団体に所蔵して活動する。そして、その中で、できるだけ有名な「先生」に作品を見てもらい、その作品を推してもらうことで「友」の階段を登っていく。二科展という展覧会の場は「人間と人間の相互牽制的な関係」が可視化される場なのだ。上妻が重視するインターネットによるコミュニケーションはほとんど行われてないようだが、上妻の言う「制作の共同体」は美術団体として長年存在してきたのだ。
さて、ポスト美術団体を意識的に反復している組織が、特集の推薦者に名を連ねる黒瀬陽平が主催する「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」だ。ウェブサイトには以下のようにある。[★16]ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校
http://school.genron.co.jp/gcls/
本プログラムは、美術教育や制作経験の有無にかかわらず、「アーティストとしての総合力」を身につけたいと望むあらゆる人々に開かれています。
対象はアーティストになりたい人だ。そして、美術教育や制作経験の無い素人にも開かれている。彼らは美術団体の会員に相当する。名前の通り、基本的には授業形式だが、受講者は成果展という名称の展覧会に出品することができる。これが団体展に相当する。受講料の一部が出品料になっていると考えればよいだろう。そして、優秀な受講者は上位団体であるところのカオス*ラウンジの展覧会に参加するチャンスが示唆されている。カオス*ラウンジは会友や理事会に相当する。受講料として集められた予算がどのように使用されているかは公開されていないので不明だが、それがカオス*ラウンジのメンバーの収入源になっていることは確かだろう。いわば、カオス*ラウンジを支える「制作の共同体」として新芸術校は機能している。
ここまで一致していれば、美術団体の構造を反復していることは明らかに思える。あるいは、彼らは世界的アーティスト村上隆が経営する有限会社Kaikai Kiki Co., Ltd.やGEISAIを参考にしているのかもしれない。[★17]Kaikai Kikiも美術団体によく似ている。ただし、美術団体が多くの場合、公益法人であるのに対して、Kaikai Kikiは有限会社である点や、日曜画家から会費や出品料を徴収するのではなく美大出身者を制作スタッフとして雇用している点が異なる。村上は、日本独特の美術団体というシステムを世界標準のカンパニーにすることで、その主戦場を美術団体展ではなくグローバルなアートマーケットに移動させたことに彼一流の飛躍がある。そして、おそらく「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」を主催する株式会社ゲンロンの経営者で批評家の東浩紀は、Kaikai Kikiの逆輸入を目指している。新芸術校は2017年度から開始される第3期を募集中であり、運営は上手く運んでいるようだ。
新家術校やパープルームの他にも、上妻が挙げるTAV GALLERY、spiid、参加[sanka]、その他にもカタ/コンベ、渋家、少し上の世代ではARTISTS’ GUILD、CAMPやongoingなども美術団体とよく似た構造を持っている。[★18]TAV GALLERY
http://tavgallery.com/
参加[sanka]
http://sankaitdk.tumblr.com/
カタ/コンベ
http://katakombetokyo.wixsite.com/katakombehome
渋家
http://shibuhouse.com/
ARTISTS’ GUILD
http://artists-guild.net/
CAMP
http://ca-mp.blogspot.jp/
ongoing
http://www.ongoing.jp/ja/
彼らをまとめて「ポスト美術団体の世代」と呼ぼう。戦後、権威的な美術団体は解体されたかに見えた。しかし、奥底でその流れは継続していた。美術団体がどのようなものであったか忘却されたいま、再び美術団体が生まれている。親世代が葬り去った祖父母の時代を孫が反復している。「ポスト美術団体の世代」は隔世遺伝のようにして、必然的に生まれたのかもしれない。
「一億総作家」と呼べるほど制作に偏った美術教育。日曜画家である彼らを美術につなぎとめておくためには、制作の共同体の一員として承認する必要がある。美術団体というシステムは日本の風土に極めてよく合致したシステムなのだ。
それでも、観賞者のいない美術界、評価も淘汰もない美術界がこのまま継続していけるはずもない。制作の共同体のメンバーが評価も淘汰も必要ないと言うなら、わたしは日本の美術を見ることをやめるだろう。しかし、彼らが評価も淘汰も望んでいないとは到底思えない。彼らは、評価も淘汰もないダラダラとした日常を肯定するために、この弛緩した日常を生き抜くために制作の共同体を形成しようとしてる。しかし、それでは単なる現状肯定になってしまう。最大の問題は、制作者たちの生き残りをかけた撤退を、美術手帖が追認していることだ。美術手帖は、少なくとも美術手帖編集部は評価と淘汰を主体として引き受けるべきだ。なぜなら、彼らは美術雑誌の制作者ではあるが、美術作品の制作者ではないのだから。そして、誌面を作る以上、必然的に評価は発生する。それを放棄することは、雑誌としての存在意義を失ったことになる。だから、わたしはこのテキストを書いている。美術手帖はプロフェッショナルな観賞者としての位置づけを回復して欲しい。そうでなければ、制作者たちのぎりぎりの生存戦略は必ず失敗に終わるだろう。
美術団体は権威主義に陥りがちだ。権威は常に批判にさらされていなければならない。外部からの批判も必要だが、内部からの批判も必要である。わたしは必ずしも「ポスト美術団体」の増加を否定しない。しかし、極めて危うい綱渡りをしているようには見える。パープルームの梅津庸一も、新芸術校の黒瀬陽平も、お山の大将になりかけてはいないか?本人たちにその意識がなくとも、彼らが主催する美術団体の「会員たち」がそう感じていればやはり権威になってしまう。梅津も黒瀬もその権威を積極的に引き受けて欲しい。それが過去の美術団体の没落を阻止する唯一の手段だろう。そして、彼らが権威であるために、「会員たち」は父殺しをしなければならない。内部からの批判が圧倒的に足りないのだ。父は、父殺しをされることによって、はじめて父になる。
わたしたちはいい時代に生きている。あまりに絶望的だが、いい時代だと思う。美術手帖の特集に掲載されていない作家でみんなに紹介したい若手がまだまだたくさんいる。世界を見渡しても、日本の若手作家は非常に豊潤だ。技量もある。足りないことはいくつもあるが、その一つが歴史に学ばないことだ。このテキストでわたしはいくつかの傾向を上げて「ポスト美術団体の世代」と名指した。例えば、美術団体に学ぶこと。その失敗を引き受けること。そして、自らも積極的に失敗を引き受けること。その度胸があるなら、まだまだできること、やらなければならないことは山ほどある。
References
↑1 | 西田篤史編集長 pundit’ reception Vol.2 失敗工房 presents 『美術手帖』が知らない真実のニューカマー・アーティスト http://hanapusa.com/info/newcomer.html |
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↑2, ↑3, ↑11 | 岩渕貞哉「Editor’s note」p.7(『美術手帖』2016年12月号) |
↑4 | わたしの他に誰もこのような形で批判しないことが、美術手帖への期待の薄さを表している。実際、この特集に掲載されている「ニューカマーアーティスト」の家に何冊の美術手帖があるか調査してみればよい。わたしの経験では、わたしたちの世代くらいまでは定期的にBTを購入して熟読していたが、「ニューカマーアーティスト」世代はほとんどゼロに近いのではないかと思う。 |
↑5 | 美術文化協会(足立元解説、artscape”Artwords”より) http://artscape.jp/artword/index.php/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E6%96%87%E5%8C%96%E5%8D%94%E4%BC%9A 美術文化協会ウェブサイト http://bibun.jp/ |
↑6 | 「人間と物質」展 | 現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A8%E7%89%A9%E8%B3%AA%E3%80%8D%E5%B1%95 日本国際美術展(コトバンクより) https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%B1%95-162163 |
↑7 | 日本国際美術展、通称東京ビエンナーレについては以下を参照。 花房太一著『戦後日本美術の国際性ーー日本国際美術展をめぐって』(季刊「じゃぽにか」に転載予定) |
↑8 | 中尾英恵「人生の舵を取るーー制作を再開した作家たち」p.99(『美術手帖』2016年12月号) |
↑9 | 梅津庸一「美術運動のオリエンテーション」pp.90-91(『美術手帖』2016年12月号) |
↑10 | 梅津庸一「美術運動のオリエンテーション」pp.93(『美術手帖』2016年12月号) |
↑12 | 公益社団法人二科会ウェブサイト http://www.nika.or.jp/top/index.html |
↑13 | 二科会に所属し何度も入選している工藤静香も会友になるにはかなりの時間を必要とした。 「工藤静香、『二科展』で会友推挙に決定「長い道のりでした」」(ORICON NEWS) http://www.oricon.co.jp/news/2077687/full/ |
↑14 | 第100回記念二科展入選者統計 http://nikaten.com/nikaten_gl/information/tenranjouhou/nika100/toukei100.html |
↑15 | 上妻世海「制作の共同体へ」p.96(『美術手帖』2016年12月号) |
↑16 | ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 http://school.genron.co.jp/gcls/ |
↑17 | Kaikai Kikiも美術団体によく似ている。ただし、美術団体が多くの場合、公益法人であるのに対して、Kaikai Kikiは有限会社である点や、日曜画家から会費や出品料を徴収するのではなく美大出身者を制作スタッフとして雇用している点が異なる。村上は、日本独特の美術団体というシステムを世界標準のカンパニーにすることで、その主戦場を美術団体展ではなくグローバルなアートマーケットに移動させたことに彼一流の飛躍がある。そして、おそらく「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」を主催する株式会社ゲンロンの経営者で批評家の東浩紀は、Kaikai Kikiの逆輸入を目指している。 |
↑18 | TAV GALLERY http://tavgallery.com/ 参加[sanka] http://sankaitdk.tumblr.com/ カタ/コンベ http://katakombetokyo.wixsite.com/katakombehome 渋家 http://shibuhouse.com/ ARTISTS’ GUILD http://artists-guild.net/ CAMP http://ca-mp.blogspot.jp/ ongoing http://www.ongoing.jp/ja/ |