目 [mé]『非常にはっきりと分からない』千葉市美術館
“Obviously, no one can mae heads nor tails.” Chiba City Museum of Art
会期:2019年11月2日(土)→ 12月28日(土)[★1]目 [mé]『非常にはっきりと分からない』(千葉市美術館)ウェブサイト
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2019/1102/1102.html
目 [mé]フェイスブック・ページ
https://www.facebook.com/mouthplustwo/
目 [mé](MOUTH PLUS TWO,LLC)ウェブサイト
http://mouthplustwo.me/index.html
アーティスト荒神明香(1983-)、ディレクター南川憲二(1979-)、インストーラー増井宏文(1980-)からなるアートグループ目 [mé]が、千葉市美術館で個展を開催した。30代の若手作家の公立美術館での個展とあって、SNSを中心に口コミが広がり、最終的には数時間待ちの行列ができる大盛況の展覧会(現代美術の展示では千葉市美術館歴代1位の入館者数)となった。
まずはじめに、アーティストと同じく30代の若手キュレーター畑井恵の慧眼と実行力を評価しておきたい。あいちトリエンナーレ2019の騒動を挙げるまでもなく、昨今の美術館をめぐる展示環境はその政治的背景を主な原因として──それが本当に政治的であるかは分からないが──悪化の一途をたどっている。そんな中、若手アートグループを招聘し、彼らが存分に制作を実践できる場を与えることは、自らのキャリアを危険に晒す行為ですらあったと思う。もしかしたら、彼女はそんなことも分からないくらい鈍感なのかもしれない。しかし、たとえそれが鈍感さの証左であったとしても、彼女が生み出した結果は評価されるべきだ。第一点目に、キュレーター畑井恵なくして、この展示が実現しなかったという事実に、少なくともわたしが勇気づけられたことを記しておく。
さて、まず千葉市美術館を始めて訪れたあなたは、千葉駅から美術館までの遠さと同時に、建築の異様さに驚いただろう。現在、千葉市美術館として使用されている建物は、1927年(昭和2年)に建てられた旧川崎銀行千葉支店(矢部又吉設計)を保存する形で、大谷幸夫により設計された。そのため、3階以上は近代建築だが、1、2階は1927年当時のネオ・ルネサンス様式の建築物がそのまま残されている。
目 [mé]は通常、美術館としては使用されていない1階も使用した。いつもはオープニング・パーティーや正式な式典などで使用されているシャンデリアのある高天井の空間は、まるで「搬入中」のように養生シートで覆われている。スピーチ用の壇上には、梱包された彫刻らしきものが雑然と並べられている。この展示を最後に一旦、建物全体の改修、改築工事に入る千葉市美術館の外部には、工事用車両が駐車されており、すでに工事も開始されていた──実は、工事作業員の一部も目の「展示物」だったそうだ。だから、一階の養生シートの前に掲げられた手作りのコンセプト文を読んだあとに、仮設のチケット売り場で入場券を購入してからその場を見たあなたは、搬入中の現場から本会場へ至る道で出会うであろう目 [mé]の新作群への期待を「無駄に」膨らませることになる。先走って書けば、そこでわたしたちは、未来を──未来への期待ではなく──膨らませていたのだ。当然、その膨張した未来は、近い将来、回収されることになるだろう。
さて、メインの会場は7階と8階である。エレベーターでメイン会場まで向かうのだが、これは先に述べた千葉市美術館の建築上の特性から要請された導線で、一般の美術館には似つかわしくない。いかにもお役所的な素っ気ないエレベーターで、市役所の職員と思しき地味なスーツに身を包んだ男性が折り目正しく職場へと向かう後ろ姿を見送りながら、平日に美術館を訪れる喜びに浸っているあいだに、8階に到着する。通常、8階が受付となってるため、わたしはまず8階に向かったのだ。
しかし、そこには、何もなかった。
一階と同様に、壁という壁が養生シートで覆われており、ところどころに梱包された絵画作品や作りかけの作品らしきものが散在している。地面にはテープで導線らしきものが引かれてある。そこで、テープに沿って移動してみる。それでも、風景は変わらない。養生シート、梱包材、作品?何が起こっているのかよく分からない。
非常にはっきりと分からない。
だから、7階へと向かうことにする。8階と7階は古典的な螺旋階段でつながっている。何度も千葉市美術館を訪れているわたしは、階段を探す。しかし、どこにも見当たらない。あの階段は、どこにあるのか?
非常にはっきりと分からない。
後に分かったことだが、彼らは階段を破壊していたわけではもちろんなく、養生シートで隠されていただけだったらしい。仕方なく、本当に仕方なく、エレベーターに乗る。たった一階だけの移動。さすがに、まだそんな年ではない。筋トレもしている。プロテインも飲んでいる。移動の基本は自転車だ。細やかな罪悪感とともに、7階に到着する。
しかし、わたしは、まだ、8階にいる。
また、エレベーターに乗る。そのときには、あの罪悪感は目 [mé]へと向けられている。私が罪を犯したのではない。彼らが罪を犯しているのではないか。8階へ到着する。
しかし、わたしは、まだ、8階にいる。
非常にはっきりと分からない。
罪人は誰なのか。わたしは8階を上下に行き来しているようでいて、8階を横に行き来している。無限に続く8階。8が∞(無限大)になる。涼宮ハルヒが作り出したエンドレスエイトの世界のように。[★2]
実は、7階と8階は養生シートや可動壁、地面に貼られたテープなどを使用して全く同じ空間として「経験されるように」制作されていた。ネット上では、この仕掛けのネタバレを自粛することが推奨された。撮影不可だったこともあり、会期中はほとんど展示の内容を知ることができなかった。あいちトリエンナーレ2019では、実際に見ることのできない作品がネット上に出回ることよって炎上したが、それとは逆に、実際に見ることのできる作品がネット上に出回ることを自粛されたために、本展示の会期終盤には長蛇の列が出きた。この逆転現象は、目 [mé]の作品に宿る政治性を表しているだろう。しかし、現時点で、わたしには、まだ、その政治性は、非常にはっきりと分からない。
筆者は多くの観客でごった返す前に会場を訪れたので、広々とした空間を見ることができた。多くの観客の中では見えづらかったかもしれないが、そこではパフォーマンスも行われていた。とは言え、そこにはパフォーマーの特殊な身体はない。ただ、わたしたち美術関係者の日常生活が現れているだけだ。すなわち、可動壁を移動して動線を変更し、作品を移動して設置する作業である。作業着と手袋をした彼らがパフォーマーであることに気づくまでに、それほど長い時間はかからない。そして、パフォーマーの行為も7階と8階で同じなのだろうかと、また何度も両者を行き来しながら確認しようとしてしまう。このように、2つのフロアを行き来しなかった者はいないだろう。2つのフロアで何が同じなのか、何が違うのか、自分の経験を確認しようとせずにはいられなくなってしまう。つまり、7階と8階を行き来しながら、わたしたちは空間の差異を確認する欲望を、制作する。
これが展示として「善いgood」かどうかを問うことは可能だろうか。搬入作業はあくまで美術の裏方仕事であって、展示空間に梱包材や養生シートが見えていてはならない。しかし、彼らが示したものは美術の裏側ではない。搬入作業という裏側を、展示という表側へひっくり返したと捉える解釈はあまりに単純に過ぎるし、端的に間違っている。なぜなら、そこには完成がなかったからだ。搬入作業は展示期間の開始を目指して完成させられる。ここで、完成させられるとは、強制されるという意味だ。実際のところ、展示に完成という概念はあり得ない──完璧な展示などありえない──のだが、会期という運営上の成約によってのみ、仮の完成を強制されている。つまり、会期初日までに、搬入作業は完成されていなければならない、と強制されている。一方、目 [mé]の搬入作業には、外部から強制された完成はない。未完成な搬入、あるいは展示が、未完成なまま持続する。したがって、パフォーマーの作業は「搬入作業」とは呼べない。
さて、わたしは先に展示作品がなかったと述べた。しかし、わたしが確認した限りにおいて、2点のみ作品が展示されていた。一点目は《アクリルガス》2018年である。特殊な容器に塗料を入れて振動を加えた上で固めた作品だ。そこに現れた色彩と筆致は、重力と遠心力の競演による偶然性の固定である。そこには、絵画と世界と必然性の無時間が在る。
もう一つが、無数の時計だ。7階と8階に直径5センチメートルほどの分針と時針のみでできた時計が数千個ほどあるだろうか、天井から透明な糸で吊るされている。それぞれ、異なる時間を示しており、時計が指す時刻自体に、意味は付与されていないようだ。
わたしの前に現れた作品はこの2点のみである。したがって、わたしはここからやっと判断力を働かせることができるようになる。この2点の作品がなければきっと途方にくれていただろう──作品がなければ、それはそれで別の快楽があったのかもしれないが。
おそらく、時計の数は7階と8階で一致していたはずだが、それは大きな問題ではない。重要なのは、その時計が同じ数だと確認することを断念させるほどたくさんあるということだ。つまり、そこには無数の「時間」がある。わたしたちは無数の「時間」をひとときに観ている。ならば、目 [mé]の作った空間はわたしたちを5次元空間に投げ込んだことを意味するのだろうか。
ここで一旦、次元=ディメンションの概念についてまとめておこう。わたしたちが生きる空間は3次元でできている。縦、横、高さの3つの次元から空間が構成されていることは、高校で数学を学ぶまでもなく直観的に理解できるだろう。そして、その3次元空間が一つのリニアー(直線的)な時間の上を流れている。この世界に時間は一つである。3次元空間としては、たとえば、富士山とサント・ヴィクトワール山が異なる山として同時に存在しているように、世界中に無数に、かつ同時に存在している。しかし、時間が複数あると困ったことになってしまう。あなたの言う1789年5月5日と、わたしの言う1789年5月5日が違ったら、歴史を共有することが不可能になる。それどころか、あらゆる個人の生や死の存在も曖昧になり、どのような共同体を作ることも困難になるだろう。わたしとあなたは、決められた時間にハチ公前で待ち合わせすることすらできなくなる。だから、わたしたちは時間は一つだという前提の上に生きている。
ところが、目 [mé]の作品では、その時間が複数化されている。しかし、もし、わたしたちが5次元空間にいるのだとしたら、つまり、目 [mé]が制作した場所が、わたしたちがいたあの場所が5次元空間だったのなら、時間が複数存在することは当然のことである。ここで、クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』の最後の場面を思い出してほしい。[★3]ブラックホールに落ちた宇宙飛行士のジョセフ・クーパー(マシュー・マコノヒー)は、無限に続く本棚を目にする。その向こうには、娘のマーフィー・クーパーの幼少期から青年期までの姿が見える。ここで、ブラックホールに落ちたクーパーはわたしたちが暮らす世界から一つ上の次元、つまり5次元空間から我々の生きる4次元空間を見ている。本棚は時間の比喩的表象だ。4次元空間にいるわたしたちが、無数の3次元空間を移動できるように、5次元空間にいるクーパーは無数の4次元空間を見ることができるのだ。
さて、上記のような5次元空間と目 [mé]が提示した空間を比べてみよう。先に述べたように、目 [mé]の空間には無数の「時間」があった。これは5次元空間と同様だ。では、そこにはクーパーの見た本棚はあるだろうか。たしかに、梱包された作品群は書籍に似ているかもしれない。しかし、そこに複数性はない。むしろ、3次元空間は一つしかなかった。そう、7階と8階は一つの空間として提示されていた。どちらも8階。横に持続していく8階。∞(無限大)空間。彼らは時間を複数化した。しかし、わたしたちを5次元空間に入れたのではない。一つの空間の中に、複数の時間を一気に可視化したのだ。まるで、地層のように・・・。
ここで、もう一つ、補助線を引こう。時間を模倣と考えてみる。時間は、同時に、世界中で模倣=コピーされている。難しく捉える必要はない。ただ、みな同じ時間を共有しているという前提で生きているという認識を言い換えただけだ。時間は、模倣=コピーされている。逆に、時間が模倣=コピーでなかったら、我々は何も共有できない危険に曝されることになる。
しかし、目 [mé]は時間をコピーしたのでもない。空間を模倣=コピーしたのだ。8階の空間を7階の空間へ。7階の空間を8階の空間へ。そうして、8階を8階へ。しかし、わたしたちは2つの空間を同時に見ることはできない。2つの空間が同じだったかどうかも確認できない。なぜなら、わたしたちが観賞している展示会場は限定された4次元空間だからだ。そして、その空間には、時間が錯綜している。しかし、その時間は4次元のそれではない。まるで、直線のような、質点のような、あるいは消失点のような、もっと「次元の低い」ものなのだ。つまり、目 [mé]は4次元=時間を5次元から見るのではなく、4次元=時間を「4」の座から引きずり降ろすことによって、3次元空間で操作可能なものへと変容させたのだ。したがって、「非常によく分からない」の展示空間において、時間はもはや4次元ではない。そこで、時間は、3次元の高さのように世界を威圧し、2次元の幅のように人類を圧迫し、1次元の奥行きのように私を魅了する。あるいは、地面の下にある、見えない地層=マイナス1次元のように・・・。
目 [mé]はチバニアンから今回の展示の着想を得たという。2020年1月17日に、今から約77万4千年前~12万9千年前の時代を示す地層の名称として千葉の名前からとられた「チバニアン」が正式に認められた。[★4]千葉市観光協会「チバニアン(千葉時代)」ページ
http://www.ichihara-kankou.or.jp/publics/index/153わたしたちは、地層を見ることで時間を超越する。『インターステラー』のクーパーの目の前に現れた本棚は地層にそっくりだ。そして、それは、ミュージアムに似ている。あらゆる年代の人々の制作した作品が無数に並ぶ空間。それが、地層であり、ミュージアムだ。
そして、やはり「チバニアン」が目[mé]の作品に次元の操作を要求したことには理由があった。なぜ、約77万4千年前~12万9千年前の地層「チバニアン」が重要なのかと言えば、はっきりとした地磁気逆転地層が観察できるからだ。小学校で習うように、微力な磁力をもった金属は、N極が北を指す。ところが、これは地球上の歴史では何度も反転してきた。つまり、N極が南を指していた時期があるのだ。この地磁気の逆転が観測できるのが、「チバニアン」なのだ。目 [mé]は地磁気逆転地層を見て、次元の反転を発想した。目 [mé]がそれを意図したとは言わない。しかし、彼らは直観したのだ。そして、「チバニアン」との偶然の出会いを必然化した。
このような目[mé]による次元の操作は、今回の展覧会だけではなかった。実は、目 [mé]はいつも次元を操作してきた。いや、正確にはいつも、次元を制作してきた。したがって、以下が本稿の結論である。
目 [mé]は「ディメンションの制作」を実践するアートグループだ。
最後に、これまでの目の作品を「ディメンションの制作」の観点から振り返って終わりたい。
2013年の瀬戸内国際芸術祭で制作された《迷路のまち~変幻自在の路地空間~》では、民家を使用して「ディメンションの制作」が行われた。観賞者は一人ずつ民家に入っていく。のび太くんが住んでいるような懐かしさは感じさせるものの、なんの変哲もない部屋の中で、観賞者は様々な家具に触れることになる。たとえば、箪笥を、たとえばクローゼットを、たとえばカーテンを。そして、冷蔵庫を開けたときに一気にディメンションが変わる。冷蔵庫の向こうは別の部屋に通じているのだ。向こうの部屋では、冷蔵庫のドアがクローゼットのドアだったりする。ただ、別の部屋に通じる出入り口に冷蔵庫を置いたと言ってしまえばそれまでだが、驚くべきことに、この単純な操作にわたしたちは驚愕する。そして、冷蔵庫を通り抜けて、また同じような懐かしい部屋に入ったとき、わたしたちは全く別の場所に来たような感覚に捕われる。そして、気づくのだ。ドラえもんの四次元ポエットはそれがポケットでることに意味があり、どこでもドアはそれがドアであることに意味があったのだと。いくつかの部屋でそれぞれのディメンションのセット(組み合わせ)を通過したあと、民家から出たときの爽快感は何だったのだろう。そのとき、わたしは初めて目 [mé]の作品を体験したのだった。
越後妻有トリエンナーレで制作された《repetitive object》2018では、まったく同様に見える巨大な石が2つ並べられた。どこで見つけたのか、巨大な石をまったく同様に見えるようにもう一つ制作したのだ。当然だが、この2つは異なる物体である。しかし、わたしたちは同じモノに見えてしまう。それ自体がわたしたちの知覚と認識の不完全性を表しているが、それよりも、わたしたちはたとえ、それが全く同じモノであったとしても、2つを同時に視ることはできない。2つのモノは同じモノであっても、同じ空間を占めることはできない。だから、2つの石を視野に入れながら、わたしたちは同じ三次元物体を視ているようでありながら、ただ一つ時間において、ただ一つの経験をしているのだ。3次元のモノが2つあるから、一つの4次元空間=経験が立ち現れる。
六本木クロッシングのために制作された《景体》2019は、荒れ狂う波の形状のように見える物体である。わたしたちは海の、あるいは波の形体を正確に捉えることができるだろうか。微細な視点で見れば、波はただのH2O分子の塊でしかない。しかし、刻一刻と変化する波を風景として捉えるとき、それはもはや3次元空間にはないだろう。時間と戯れる3次元空間。わたしたちが、海を眺めるとき、時間を忘れてしまうのは、波が時間と溶け合っているからだ。ところが、目 [mé]はその波を固定してしまう。3次元が固定される。時間との戯れを禁止される。こうして、海はただ、風景の形体、すなわち《景体》としてのみ現れる。そこには、時間の快楽はない──あらゆる快楽は時間的だ。ところが、目 [mé]が提示した風景は、寒々しいどころではない。そこは、絶対零度にまで冷えている。その上に、3次元空間が立ち現れる。
以上のように、目 [mé]はいつも「ディメンションの制作」を異なる形で実践してきた。千葉市美術館での個展「非常にはっきりと分からない」では、チバニアンという地層との出会いを経て、よりその性格がはっきりと現れていた。しかし、だからといって、観賞するわたしたちがディメンションについて、何かを非常にはっきりと分かるようになったとは言えないだろう。とりあえずのところ、わたしたちは「非常にはっきりと分からないこと」がはっきりと分かったのかもしれないという可能性に直面している。この可能性の延長と持続は、目 [mé]が「ディメンションの制作」を持続し、わたしたちが彼らの作品の観賞をしつこく続けることで、変化し、新たに生成されていく。[★5]本稿は、展覧会終了後に出版されたカタログ(大崎晴地、小野桃子、畑井恵、星野太、グンヒル・ボーグレーンの論考を含む)を読まずに書いた。彼らの論考と何かしらの共振があれば嬉しく思う。
http://www.ccma-net.jp/publication_catalog/2019/2019_04.html
(花房太一)
References
↑1 | 目 [mé]『非常にはっきりと分からない』(千葉市美術館)ウェブサイト http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2019/1102/1102.html 目 [mé]フェイスブック・ページ https://www.facebook.com/mouthplustwo/ 目 [mé](MOUTH PLUS TWO,LLC)ウェブサイト http://mouthplustwo.me/index.html |
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↑4 | 千葉市観光協会「チバニアン(千葉時代)」ページ http://www.ichihara-kankou.or.jp/publics/index/153 |
↑5 | 本稿は、展覧会終了後に出版されたカタログ(大崎晴地、小野桃子、畑井恵、星野太、グンヒル・ボーグレーンの論考を含む)を読まずに書いた。彼らの論考と何かしらの共振があれば嬉しく思う。 http://www.ccma-net.jp/publication_catalog/2019/2019_04.html |