このテキストはあくまで試論である。何らかの根拠に基づいて書かれたものではない。ただ、わたしが聞いた声に対する中空への応答であるにすぎない。いわばツイートのようなものである。よって、このテキストが何らかの議論を喚起したとしても、わたしはそれに与しないことを先に断っておく。しかし、同時に、この応答のみが公共的でありえるのだと確信していることをここに告白してから、本論に入りたい。
問いはいたって単純だ。「いい絵」とは何か?これである。
多くの方には「いい絵」という言葉が何を指すのか分からないだろう。実はわたしも分かっていない。以下のテキストは、この分からなさへの応答でもある。[★1]このテキストは友人のアーティスト村山悟郎の博士論文に触発されたものでもある。本テキストでは、以下で「接触の美学」を否定的に扱うが、それを肯定的に扱うことにこそ可能性がある。村山の博士論文では、この点についてオートポイエーシスの理論に依拠しながら制作論として議論している。
村山悟郎『創発する絵画』(東京藝術大学平成26年度博士論文)
あるときから「いい絵」という言葉を頻繁に聞くようになった。わたしは学生を中心とした若手アーティスト(の卵)と話す機会が多い。彼らの中でも特に絵描きを目指す学生たちが頻繁に使用する単語がこの「いい絵」である。この言葉が影響力を持っていることは、梅津庸一氏が主宰するオルタナティヴな美術予備校の「パープルームのきまり」にも「いい絵至上主義」という一項目が設けられていることからも分かる。[★2]パープルーム大学物語「いい絵」を描けるようになりたいという若者が多く存在することが共通理解となっていると言っても過言ではないだろう。(わたしの友人の布施琳太郎も頻繁に「いい絵」という。やめてほしい。)
この「いい絵」という言葉が聞かれるようになったのは、2009年のリーマン・ショック前後だったと記憶している。リーマン・ショック以前のアートバブルでは、若手作家の青田買が散見された。友人のアーティスト笹山直規は当時だけで1,000万円を超える売上があったと言う。今から思えば羨ましい話だろうが、わたしは特に驚かない。ただ単に、そういう時代だっただけだ。笹山だけでなく、多くの若手の作品が美術系大学の学部生時代に数十万、数百万で買い上げられていた。中でも絵画は売れに売れた。ところが、リーマン・ショックでそれらの作品は文字通りゴミになった。アートバブルは単なる熱狂でしかなく、売れに売れた作品群に批評的な言語が付されることもなかった。これは一側面からは批評家の怠慢だったと言える。同時に、批評家を含めた美術関係者がマーケットに敗北したことを意味している。
当時、売れに売れた絵画。しかし、あの絵とは何だったのか?それを説明するための苦し紛れの言い訳が「いい絵」という言葉だったのではないか。これは、同時代を生きたわたしの自省でもある。わたしたちは「いい絵」という言葉しか後の世代に残せなかった。それは恐らく「悪い場所」という父に対するコンプレックスが言わせた言葉だった。わたしたちはまだ父殺しを終えていない。いや、そもそも父などいなかった。これが日本だ。わたしの国だ。[★3]
五つの赤い風船 遠い世界に 投稿者 msn98yわたしたちはまだ「悪い場所」にいる。しかし、だからこそ、まだ見ぬアーティストたちのために、わたしは「いい絵」とは何だったのかについて、反省的に、そして現在的に、応答しようではないか。
「いい絵」とは何か。それは「気持ちいい絵」である。
ここで、迂遠に思われるだろうが、ミラー・ニューロンについて分かりやすく確認しよう。このミラーニューロンこそが、このテキストの梃子となる概念だ。
・・・有名な話だと「ミラー・ニューロン」というのがある。鏡神経。
これは何かと言うと、ちょっとしたハプニングで見つかったんだ。サルが実験椅子に座ってる。実際には動かないように椅子に縛られている。そうしてサルの脳神経の反応性を測定していたんだけど、その途中で研究者が休憩をとって、シャーベットか何か食べてたの。
そしたら、研究者がスプーンを口に持っていくたびに、それを見ていたサルの脳で、ある神経が活動したんだ。その神経を詳しく調べてみたら、なんと、サル自身が何かを口まで持っていくときにも反応する神経だったんだって。わかる?
これは自分であろうと、他人であろうと関係なく、ある〈しぐさ〉に対して反応する神経だね。だから、ミラー(鏡)の神経という名前がついている。[★4]池谷裕二著『進化しすぎた脳』2007年、講談社、p162
サルと同様にヒトにもミラー・ニューロンがあると考えられている。これは感覚的には、違和感なく理解できるだろう。たとえば、怪我をしている人を見ると自分も痛いと感じる。激しい運動をしている人を見ると自分も疲れた気になる。この例は脳科学者から言わせれば正確ではないだろうが、とりあえずこの程度に理解しておこう。
勘の良い方はもうお気づきだろうが、同様のことが美術作品でも起こる。脳科学の発展とともに、美学にも神経美学Neuroestheticsと呼ばれる分野が生まれた。この神経美学の中でも特に引用回数の多い論文から参照しよう。
We propose that even the artist’s gestures in producing the art work induce the empathetic engagement of the observer, by activating simulation of the motor program that corresponds to the gesture implied by the trace. The marks on the painting or sculpture are the visible traces of goal-directed movements; hence, they are capable of activating the relevant motor areas in the observer’s brain. Despite the absence of published experiments on this issue, the mirror-neuron research offers sufficient empirical evidence to suggest that this is indeed the case. [★5]Freedberg D, Gallese V (2007) Motion, emotion and empathy in esthetic experience. Trends in Cognitive Sciences 11: 197–203.
身体の動きだけでなく、動くことのない絵画や彫刻でも、ミラー・ニューロンは反応する。観賞者の身体は、人体彫刻を見たときには、同じ格好になったように反応し、抽象絵画を見たときには、作家と同じ筆さばきをしたように反応すると考えられる。
このテキストを読んでいる方には、アーティストやアート好きが多いだろうから、このことは直感的に理解できるのではないだろうか。たとえば、絵画を見たとき、「このストロークには勢いがあるね」と表現することがある。線を見ただけで勢いが分かるのは、自分の身体が反応しているからだと考えられる。また、絵の具がたくさん盛られた絵画のほうが、なんとなく快感がある。これは、おそらく絵の具に残る筆の痕跡から得られる視覚情報の分かりやすさが、身体をより多く反応させているからではないだろうか。
さて、ここまでくれば「気持ちいい絵」を定義できる。ミラー・ニューロンの研究から得られた知見は、絵画を見るだけで、観賞者は作家の身体の動きを自分の中に再構築することができるということだ。簡単に言えば、観賞者は絵画から作家の身体の動きを感じることができる。換言すれば、絵画は身体的な共感をもたらすのだ。そして、絵画の観賞から得られる身体感覚の中でも「気持ちいい」と思えるものが「いい絵」と呼ばれるのである。また、「いい彫刻」ではなくあくまでそれが絵に限定されている理由については、わたしの友人のアーティストHouxo Queの以下の発言が示唆的である。[★6]Houxo Queはこれに続けて以下のようにツイートしたことも付記しておく。
だから絵を描く快楽って信用できねぇんだよな。
気持よく描けたことと、良い絵と、良い作品、全て相関がない。
生の絵の具がついた筆を画面に擦り付けるのって、ちょっと性的なくらい気持ちいいですよね。— HouxoQue™ (@QueHouxo) 2016, 2月 8
この「気持ちいい」感覚は、視覚的というよりも触覚的であると言われるべきである。なぜなら、わたしたちは作家の身体感覚を自らの身体感覚として再構築するからである。そのとき、わたしたちは筆で、キャンバスに触れているのだ。つまり、「気持ちいい絵」とは視覚の美学ではなく、「接触の美学」に依っている。
では、「接触の美学」とは何か。
好例がある。アクセサリーだ。たとえば、道端で売られているアクセサリーは、そのものとしては美しくはない。しかし、そのアクセサリーが、あの人の指を縛っていることを想像したとき、はじめて美しいと感じる。換言すれば、肌に〈接触〉していると〈感じる〉から美しいのだ。
唐突にアクセサリーの例を出したが、そこには経験的な仮定がある。「いい絵」と言いたがる作家の多くは、何かとセックスの比喩を用いて美術を語るものが多い。同時に、性愛関係に囚われているものが多い。また、多くの場合、彼らは他者に対する承認欲求が強い。これらは、ミラー・ニューロンと「接触の美学」によって説明できる。彼らが求めるものは共感である。そのため、他者に対して多くを求める。また、おそらく無意識的に、視覚よりも触覚を重視しているため、セックスが最も分かりやすい比喩となるのだ。
まとめよう。「いい絵」とは、筆致によって「気持ちいい」というミラー・ニューロンを反応させる「接触の美学」に依拠した絵画である。それは、アクセサリーに似ている。したがって、以下のように定義しよう。「いい絵」とは、すなわち「アクセサリー絵画 Accessory Painting」である。[★7]友人のアーティスト有賀慎吾は、「いい絵/気持ちいい絵/アクセサリー絵画」を指して、「コンドーム・ペインティング」と呼んでいる。それは、「いい絵」の無害さや安全さを表すと同時に、「接触の美学」としての中途半端さを言い当てている。つまり、「コンドーム・ペインティング」とは、妊娠が回避された、セーフ・セックス=安全な絵画のことである。
思うに「いい絵」は外国語に翻訳できない。少なくとも”good painting”と「いい絵」は異なる概念だ。もし、「いい絵」が”good painting”と同義なら、”good”の概念をめぐる議論があるはずだ。しかし、そうした議論はまったく見られない。[★8]もう一度、有賀慎吾にご登場願おう。「「いい絵」という言葉は、モダニズムからきてるはずで、アクセサリー・ペインターたちはまさにアクセサリーのように、モダニズムを軽々しく身につけている。」(有賀談)そして、そのことは日本の特殊性をも表している。日本の美術教育には、観賞教育がないと長い間指摘されている。逆に、日本の制作教育の平均値はおそらく世界トップだろう。観賞は視覚的な行為だが、制作は触覚的な行為でもある。制作教育に偏重した日本の美術教育は、視覚よりも触覚を重視する特殊な観賞者を生み出したのではないだろうか。作家もまた同様である。だから、「いい絵」という曖昧模糊とした言葉しか使えないのではないだろうか。ひとまず、わたしはグローバルな単語として「アクセサリー絵画 Accessory Painting」という言葉を提案したい。この単語のほうが、他国のかたにも受け入れやすいだろう。
さて、上記のように個人の触覚に依拠する「いい絵」または「アクセサリー絵画」の良し悪しを判断することは、わたしにはできない。(いったい、誰にできるだろう?)触覚的な「いい絵」を、視覚芸術としての美術の歴史的言語で語ることはできない。わたしはあくまで視覚的でいたい。だから、神経美学の知見を借りてここまで文を繋いだ。これ以上、わたしが語ることはない。ただ、これを起点に、「いい絵」あるいは「アクセサリー絵画」に理性的な言語が付されることを期待するのみである。
References
↑1 | このテキストは友人のアーティスト村山悟郎の博士論文に触発されたものでもある。本テキストでは、以下で「接触の美学」を否定的に扱うが、それを肯定的に扱うことにこそ可能性がある。村山の博士論文では、この点についてオートポイエーシスの理論に依拠しながら制作論として議論している。 村山悟郎『創発する絵画』(東京藝術大学平成26年度博士論文) |
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↑2 | パープルーム大学物語 |
↑3 | 五つの赤い風船 遠い世界に 投稿者 msn98y |
↑4 | 池谷裕二著『進化しすぎた脳』2007年、講談社、p162 |
↑5 | Freedberg D, Gallese V (2007) Motion, emotion and empathy in esthetic experience. Trends in Cognitive Sciences 11: 197–203. |
↑6 | Houxo Queはこれに続けて以下のようにツイートしたことも付記しておく。 だから絵を描く快楽って信用できねぇんだよな。 気持よく描けたことと、良い絵と、良い作品、全て相関がない。 |
↑7 | 友人のアーティスト有賀慎吾は、「いい絵/気持ちいい絵/アクセサリー絵画」を指して、「コンドーム・ペインティング」と呼んでいる。それは、「いい絵」の無害さや安全さを表すと同時に、「接触の美学」としての中途半端さを言い当てている。つまり、「コンドーム・ペインティング」とは、妊娠が回避された、セーフ・セックス=安全な絵画のことである。 |
↑8 | もう一度、有賀慎吾にご登場願おう。「「いい絵」という言葉は、モダニズムからきてるはずで、アクセサリー・ペインターたちはまさにアクセサリーのように、モダニズムを軽々しく身につけている。」(有賀談) |