失敗工房企画「Mistake #1」に向けて書いたテキストを公開します。このテキストの問いに、鳥井祥太が個展で応答してくれます。[★1]鳥井祥太個展 “Oblivion -The Last Love-“
http://hanapusa.com/info/oblivion-the-last-love.html


ファイン・アートには大きく分けて、絵画と彫刻があると言ってよいだろう。そのような区分けになっていることには歴史的な理由があるのだが、それについてはひとまず置いておこう。この絵画と彫刻を対照させて、それぞれの性質を一言で表現すれば、前者の特徴は正面性にあり、後者の特徴は回遊性にあると言える。

まず、絵画の正面性について考えてみよう。
絵画は窓や鏡に喩えられることが多い。絵画の始まりは、ナルキッソスの神話を引いて、鏡に写った自分の顔を見たときだと語られることがある。ナルキッソスは池を見たのだから、下を向いていたことになるが、地面に鏡を置いている使用する人は少ないだろう。多くの場合、鏡は壁に掛けられている。まるで、窓のように。窓はまるで鏡のように。ここで重要なことは、窓や鏡は斜めから見ることはない点だ。つまり、窓や鏡は正面から見ることが前提されている。ポータブルな化粧鏡は支え棒で斜めに傾けて置かれるが、その鏡に移される顔は正面に据えられる。ここから、鏡や窓は「観賞者」がそれを水平に見ることが想定されているということが分かる。

このために、わたしたちは水平の思想を持っていなければならない。換言すれば重力を忘れなければならない。透視法が象徴的である。透視法における消失点は絵画平面上のどこに置かれても問題ないのだが、いつも視線は水平に進む。たとえ絵画の中の光が点から降り注いでいるとしても、観賞者の目から放たれる光は常に直進する。つまり、透視図法は重力を透明にすること、あるいは重力を忘れる方法だった。

美術の歴史を多少学んだものならば、ここで、素朴な疑問が湧くだろう。ポロックがいるではないか?と。そう、ポロックは垂直の力を、つまりは重力を利用した。ポロックは画布を地面に置き、絵の具を垂らしながら絵画を描いた。いわゆるアクション・ペインティングである。しかし、アクション・ペインティングという呼び名では、絵の具を画布に叩きつけるようにイメージされてしまう。ポロックの制作風景を見ると、絵の具を叩きつけるというよりは、絵の具を垂らすと表現したほうが相応しい。絵の具がたっぷりついた筆を中空で水平に動かす。そして、絵の具が加速度gにしたがって、画布へとたどり着く。

ここで、ポロックの仕事が絵画を正面性から平面性へ移行させたことが了解される。画布にたどり着いた絵の具の粒子には共通性がある。全て、同じ加速度gでたどり着いたことだ。たとえば、イーゼルを使って描かれた絵画は、画家の「筆圧」によって、画布に押し付けられる絵の具の圧力が異なる。しかし、ポロックの絵画はどこも均質だ。だから、彼の絵画が水平から垂直へと強制的に立てられ、絵画作品としてわたしたちの前に現れるとき、そこには完全に平面的な絵画が現れる。そこで縦方向のY軸は消滅し、ただ、水平なX軸のみが現れる。いわば、太陽光のように、観賞者の視線は無数の平行線として想定されている。これが、ポロックの仕事だった。

しかし、それは正面性のために重力を利用したにすぎない。逆に言えば、ポロックは、アクション・ペインティングを作成する前に、絵画の中に上下を発見していたのだ。つまり、絵画に重力を発見していた。しかし、そこからポロックが目指したものは、彫刻でなく絵画だった。水平の力を垂直に視ることによって、ポロックは絵画に完全な平面性を付与した。画面のすべてに加わる力を均等に慣らした。そして、画布を飼いならすことに成功したのだ。だから、やはりポロックは画布に対して圧倒的な勝利を得たと言える。

換言しよう。彼のアクションペインティングのアクションは、筆さばきではなく、地面に置かれたキャンバスを、縦に立ち上げるアクションのことをこそ指し示していたのだ。

さて、続いて彫刻の回遊性について考えよう。
なぜ、わたしたちは彫刻を回遊するのか?一般的には、絵画がある超越的な質点から見られることを想定されていることに対して、彫刻は複数の視点から見られることを想定しているためであると考えられる。換言すれば、絵画は2次元表現であるのに対して、彫刻は3次元表現であるということだ。これを考慮すると、このように言いたくなる。すなわち、わたしたちは彫刻を前にしたとき、その全貌を見たいという欲望に突き動かされてしまうのだと。しかし、このような表現をすると、たちまち精神分析に巻き込まれていく。(精神分析を否定しているわけではない。)しかし、アインシュタインの相対性理論から100年以上を経た現在にいるわたしたちは、彫刻の回遊性に科学的な定義を与えなければならない。

なぜ、わたしたちは彫刻のまわりを回遊するのか?それは彫刻が重いからだ。彫刻には質量が前提されているのだ。そして、わたしたちは彫刻の質量による、空間の撓みに沿って、その周りを回遊させられる。まるで、惑星のように。

ご存知の方には必要ないだろうが、説明しよう。アインシュタインの『一般相対性理論』によれば、質量をもつもののまわりの空間では、空間が曲がっている。これが重力である。現実には3次元が曲がっているのだが、その曲がりは認識できないので、2次元の絵に描いてみよう。

basket

ピンと貼った布の上にバスケットボールを置くと、ボールの重さによって布が撓む。これと同じことが質量のあるものの周りでも起こっている。そこへ、卓球ボールが近づいてきたとしよう。すると、その卓球ボールはバスケットボールの周りをルーレットの玉のようにくるくると回る。

pingpong 2

これと同じことが彫刻でも生じているのである。上記の例のバスケットボールが彫刻に、卓球ボールが観賞者に当たる。わたしたちは、彫刻の質量によって生じた時空間の撓みにしたがって、その周りを回遊するのである。つまり、彫刻の回遊性は物理現象によるものである。だとすれば、彫刻の回遊性という抽象的な言い回しは極めて科学的であったことが分かるだろう。彫刻の回遊性は、物理科学によって必然的に生じているのである。わたしたちは、彫刻の全体像を掴みたいと欲するから回遊するのではない。ただ、時空間の撓みに沿って周回しているだけなのだ。重力を利用したポロックは彫刻を絵画に吸収した。あるいは、絵画の彫刻性を、つまり質量を発見したと言える。

さて、21世紀に生きるわたしたちは物理現象に左右されない、もう一つスペースを手にしている。サイバースペースだ。近年、コンピューターの処理能力の向上により、3DCGも個人が比較的容易に作れるようになってきた。メディアアートを初めとした芸術の世界でも、3DCGを使用した作品が多く見られるようになっている。しかし、わたしは大いに不満だ。わたしたちは物理法則に縛られる必要のない新たなスペースを手にしている。しかし、なぜ、そこはデカルト空間でしかないのか?なぜ、重力を前提にしたスペースしか想像(創造)できないのか?サイバースペースには本来、質量も重力もない。ところが、みな重力を前提としている。このような思考は、惰性でしかない。ポロックのアクションから何歩も後退している。

だから、わたしはアーティストたちに問いかける。サイバースペースで彫刻は可能か?

それは、サイバースペースを得てもなお、重力を忘れられない人間へのアンチテーゼだ。同時に、絵画に奪われた彫刻を取り戻すためのチャレンジでもある。絵画表現としての透視法が唯一の超越的な質点を想定していたの対し、彫刻は回遊性による複数の視点を想定していた。しかし、先に述べたように、ポロックは重力を利用することにより、絵画へ無数の視線を導入した。抽象的に言えば、視線の数では、絵画が彫刻に勝ったのだ。したがって、「サイバースペースで彫刻は可能か?」という問いは、サイバースペースにおける視線(の数)への問いでもある。それは、サイバースペースにおけるわたしの身体への問いなのだ。

References   [ + ]

1. 鳥井祥太個展 “Oblivion -The Last Love-“
http://hanapusa.com/info/oblivion-the-last-love.html