生き残るためのメタ友達

日本現代アート界ウザい度no.1じゃぽにかが『なぜ、同級生同士の芸人は売れるのか? 「創作的友達の見つけ方・出会い方」について、今注目のアート集団・じゃぽにかが自らの体験を基に考察【友達アート】 』という論考(以下、じゃぽにか論考)を発表した。

あいも変わらず、何が言いたいのか分からないテキストだ。このクセのあるテキストを書いたのがどのメンバーかすぐに分かってしまうのだが、そのことがすぐに分かってしまうのはわたしがじゃぽにかの友達だからであって、ほとんどの方には誰が書いたか分からないだろう。

それは置いておくとして、テキストの中でわたしのことに言及されてしまったし、当の「奥村直樹ノ友達展」についてはぜんぜん書き終わらないので、ここでじゃぽにかのテキストにツッコミを入れたいと思う。

では早速、ツッコミの要点をまとめましょう。

  1. で、何が新しいの?
  2. で、何が特殊なの?

終わり、、、なのだが、さすがに責任を放棄している感じがあるので、1つずつ説明しておく。

1. で、何が新しいの?

じゃぽにか論考では、「友達アート」を様々な言い回しで定義しているため大変捉えづらいのだが、一箇所引用しよう。

もう少し厳密に言えば、共同制作の祭に友達の関係性が芸術の技術に先立って存在し、その友達性が作品に濃密に反映されるようにアートである。[★1]『なぜ、同級生同士の芸人は売れるのか? 「創作的友達の見つけ方・出会い方」について、今注目のアート集団・じゃぽにかが自らの体験を基に考察【友達アート】 』

テキストの書き方でなんとなく新しいことを言っているように聞こえてしまうが、ぜんぜんそんなことはない。友達関係が先立って存在しているアートなんて山程列挙できる。近いところで言えば、YBAs、Chim↑Pom、昭和40年会、少し遡ってシュルレアリスムやダダなどのサロン文化、もっと遡って東京都美術館で展覧会が開催されていたボッティチェリだって、フィリッポ・リッピとフィリッピーノ・リッピ親子との関係がとっても重要なものとして展覧会で扱われていたし、仏教彫刻は共同制作だし、中世の工房なんて友達そのものと言えるし、ギリシャ彫刻だって共同で作ってた。ぼっちアーティストの代表格的存在のゴッホだって、弟のテオと親友ゴーギャン(最終的に裏切られた)がいた。友達関係から完全に切り離された制作を見つけるほうが難しい。だいたいのアーティストはアートと関係するサークルに所属していて、その人脈を使って作品を制作し、成り上がっていく。そうでないアーティストなんてほとんどいないと思う。よって、「で、何が新しいの?」と思うわけだ。

しかし、この疑問、誰でも思いつく。誰でも思いつく批判を事前に回収しないでテキストをTOCANAに投稿できていしまう面の皮の厚さがじゃぽにかが嫌われる理由の一つでもあるだろう。なんてことは、いいとして、わたしはじゃぽにかより論理に強いので、この疑問に勝手に答えておこう。自問自答ってやつだ。

先に挙げた例はすべて友達関係を背景にして制作されたアートの例だった。サロンでの関係性は「伝説」として語り継がれているし、歴史研究としては非常に重要な価値を持っているのだが、それはあくまで特定の作家や作品を理解する手がかりとして研究、言及されるに過ぎない。

じゃぽにかの狙いはそこにはない。彼らの狙いは「友達関係そものもを作品にすることは可能か?」という問いにある。おそらく、現代にいたるまで友達関係なんてものは「自然に」存在するものであり、問題にされるようなものではなかった。しかし、現代において、どのように友達関係を築くか、どこで友達を見つけるか、といった友達関係それ自体が問題になってきた。あるいは、そうした極めて個人的な問題がウェブを通して可視化されたことで前景化している。ぶっちゃけ友達関係というものは、ただそこに在るもので、それ自体を問うてしまうと「メタ友達」みたいな関係になって、友達でいられなくなるはずだ。「自己言及的友達関係」。こんなにウザいものはない。でも、考えてみれば、わたしたちの時代からこういう感性は存在した気がする。たとえば、「こんなしょーもないネタで笑えるわたしたちってマジ友達だよねぇ〜」みたいなことを言う人って多かった。[★2]北田暁大が指摘する「つながりの社会性」の初期の担い手がわたしたちの世代だったと思う。近年では言及されることが少なくなったが、LINEスタンプなども「つながりの社会性」の一つであり、現在でも議論されるべき論点の一つである。
濱野智史の「情報環境研究ノート」:「第6回 情報環境研究のキーワード「繋がりの社会性」
濱野智史の「情報環境研究ノート」:『恋空』を読む(番外編):宮台真司を読む ― 繋がりの《恒常性》と《偶発性》について
わたしは昔っからこういう「自己言及的友達関係」が嫌いだったが、事実としてそうした関係が増えているのは確かだ。「花房さん、◯◯さんと友達なんですか?」と聞かれることも増えた。なんと答えればいいのか、いつも答えに窮するのだ。

おそらく、この「メタ友達」あるいは「自己言及的友達関係」が前景化してきた以上、それについて何らかの形式を批判的に与えなければならないのではないか?という挑戦がじゃぽにかが「友達アート」という言葉で指摘したい問いだろう。そして、彼らの中で問題が明確化されていなかったがゆえに、「で、何が新しいの?」というベタな問いしか引き出せなかったのだろうと思う。とりあえず、わたしは彼らに「メタ友達」「自己言及的友達関係」という言葉を与えよう。あとは、じゃぽにかがやりたい方向で作品を考えてくれればよい。わたしは勝手に違う方向で考えていく。自己言及するならば、わたしの投げやりな態度こそがわたしとじゃぽにかの友達関係の証左なのだが。

2. で、何が特殊なの?

2点目の疑問へ移ろう。

じゃぽにか論考では美術予備校についてダラダラと書かれている。まるで美術予備校が一般の予備校とは全く違うかのように書かれているが、その特殊性がまったくあやふやだ。わたしは代々木ゼミナールに通っていたが、大学受験のスキルなんて高校では教えてもらえなくて、代ゼミではじめて特殊な技術を教えてもらったと思うし、講師の色というのもあって、わたしは西谷昇二派だったけど、他にも西きょうじ(バード)派とか今井宏派とかいろいろあった。[★3]西谷昇二は現在にいたるまで受験業界のカリスマであり続けている。また、西きょうじは予備校講師を続けながら文化人としても活躍しており、軽井沢に移住したことでも注目されている。
彼らからの影響は明らかに存在して、今でもわたしは西谷的な英文の読み方をしていると思うし、大学院受験のときには、西谷先生の教材を使って勉強したりもした。ただ、そんなことは強調しても仕方がないと思う。決定的な影響を受けたとは言え、それは様々な影響の中の一つでしかない。どこかを強調するなら、予備校をわざわざ選ぶ必要もなかろうと思う。正確には、大学に入学してからのほうが様々な影響を受けるし、大学での指導教官の名前を出したほうが、一般的にも通じやすく、その人の特殊性も理解しやすい。逆に言えば、美術業界は共有されている固有名が美術予備校の講師くらいしかないということが悲劇なのだと思う。実際、東京藝術大学の教授陣の名前を言われて、その作品傾向と関連付けられる人は美術業界の中でもかなり少数だと思われるし、ましてや美術系大学に通ったことがない人からすれば、興味すら持てない。

さて、実はここまで書いたところで、じゃぽにかが何を指摘したかったかも予想できてくる。またもや、論理の得意なわたしが問いを明確にしてあげましょう。–美術予備校の特殊性とは、すなわち美術業界の狭さである。

予備校でも大学でも、多くの友達は異なる業界に進む。わたしの予備校時代、大学時代の友達は様々な業界で働いている。そもそも友達とは、仕事とは異なる場の関係性のことを指すはずだ。職場で友達がいるとしても、多くの場合「〈職場の〉友達」という修飾をつけて名指される。修飾なしの友達は、仕事と関係のない関係性を指す。基本的には利害関係がない関係性のことを友達と呼ぶのではないかと思う。この点、美術系大学に通い、そのまま美術系の仕事をしている、あるいは美術に関心を持ち続けているじゃぽにかたちは、仕事と友達がべったりとくっついている。それは美術業界にとって良いとも悪いとも言えるのだが、とにかく事実そうである。

この美術業界の狭さを特殊性として名指したり、逆に一般化したりして、作品に取り込むのはおそらく不可能だろうと思う。単に美術業界が狭かったから、美術予備校の話で属性判断できちゃうよね、というだけでしかないと思う。じゃぽにかに分かるように書くと、「オレは代ゼミ、慶応SFC、東大院出身で、それぞれに特殊性があってけっこう一般的にもその特殊性は知られているけど、君らそのことに興味ないでしょ?」ということである。要するに、「美術予備校特殊論/一般論」ってぜんぜん面白くなりそうな気配がないよ、と言いたい。

ということで、わたしの意見は現代的な「友達関係」を作品化することには興味が持てるし可能性もあると考えられるけれど、美術予備校の話にはまったく関心ありません、ということです。んじゃ、じゃぽにかがんばってね。

追記:じゃぽにかへの進言

と、ここで終わらないのが、わたしのしつこさ。じゃぽにか論考の最後で唐突に言及されている芸人について認識を訂正することを通して、じゃぽにかの可能性を一つ提示しておきたい。

じゃぽにか論考では、ダウンタウン以降、友達コンビが多くなったように書かれているが、そんなことはない。歴史的に友達からコンビ結成に至った芸人のほうが多いくらいだし、夫婦漫才だって昔からあった。そもそも、師匠に着くということが、ゼロからその業界や技術を知るということであって、じゃぽにか論考に即して言えば美術予備校に入学することにあたる。たしかにNSCという学校ができたのは新しかったが、制度が組織化され可視化されたというだけであって、内実が変化したわけではない。さらにツッコんでおくと、内輪ネタを大々的にテレビに持ち込んだのは、とんねるずだ。若い世代は知らないだろうが、ダーイシや港さんなど、テレビの業界人をネタにしたコントが流行った。

加えて、友達関係や先輩後輩関係をネタにするようになったのは、内容の変化ではなく、ネタ番組からバラエティ番組へ、テレビ番組の形式が変化したことへの対応だった。今でも漫才のネタで友達関係や後輩関係をネタにすることは少ない。しかし、バラエティ番組では、芸人自身のネタの一部として使わざるを得ない。そのため、芸人同士の人間関係が見えるようになってきたのだ。

よって、じゃぽにかが問うべきは、やはり形式なのだ。アートにおける友達関係を作品化したいのであれば、芸能界のバラエティ番組、具体的にはひな壇にあたるような形式を創出しなければならない。

さらに、この芸人本人のネタ化はすでに一般化している。それがキャラである。[★4]キャラの一般化はいじめの温床になるなどネガティヴな側面が強調される。しかし、なぜキャラがこれほどまでに一般化したのかについてポジティヴな側面を強調する論考を寡聞にしてわたしは知らない。どなたかご存知であればご教示いただきたい。少なくとも、これほど一般化したからには、何かしらポジティヴな側面もあったと考えたくなるのだが、どうだろうか。
スクールカーストでもっともキツイのは「いじられキャラ」だと指摘されることがある。いじられることよりも「いじられキャラ」でいつづけることが彼らを苦しめる。この意味では、すでに友達関係は「自己言及的友達関係」による「メタ友達」になっている。そして、この関係性が生きづらさの原因とされているとすれば、じゃぽにかが目指すべきは、「生き残るためのメタ友達」だろう。

もう一つ、芸人と同じく友達関係の形式化に成功した例を挙げておこう。アイドルである。[★5]
AKB48に代表されるように、アイドルは内部での関係性を暴露するだけでなく、その関係性に観客をも巻き込むことでマーケットで大成功している。そして、その関係性を芸人で言えばネタにあたる楽曲にまで反映させていえる。この点において、「自己言及的友達関係」を作品化できていると言える。じゃぽにかはアイドルにはなれないと断言できるが、アンチが多いという意味ではアイドルに近いようにも思える。

最後に、芸人やアイドルと比べたときに分かるじゃぽにかの問題点を指摘しておこう。それは、リスクである。芸人もアイドルも、自分自身や関係性をネタにすることで大きなリスクを負っている。最近のアイドルが技術がなくとも受け入れられるのは、彼らがリスクを負っているからだ。しかし、じゃぽにかはどんなリスクを負っているのだろうか?じゃぽにかメンバーであることのリスク。これが可視化されれば、自ずと自分たちがいるべき「ひな壇」も見えてくるのではないだろうか。

References

References
1 『なぜ、同級生同士の芸人は売れるのか? 「創作的友達の見つけ方・出会い方」について、今注目のアート集団・じゃぽにかが自らの体験を基に考察【友達アート】 』
2 北田暁大が指摘する「つながりの社会性」の初期の担い手がわたしたちの世代だったと思う。近年では言及されることが少なくなったが、LINEスタンプなども「つながりの社会性」の一つであり、現在でも議論されるべき論点の一つである。
濱野智史の「情報環境研究ノート」:「第6回 情報環境研究のキーワード「繋がりの社会性」
濱野智史の「情報環境研究ノート」:『恋空』を読む(番外編):宮台真司を読む ― 繋がりの《恒常性》と《偶発性》について
3 西谷昇二は現在にいたるまで受験業界のカリスマであり続けている。また、西きょうじは予備校講師を続けながら文化人としても活躍しており、軽井沢に移住したことでも注目されている。
4 キャラの一般化はいじめの温床になるなどネガティヴな側面が強調される。しかし、なぜキャラがこれほどまでに一般化したのかについてポジティヴな側面を強調する論考を寡聞にしてわたしは知らない。どなたかご存知であればご教示いただきたい。少なくとも、これほど一般化したからには、何かしらポジティヴな側面もあったと考えたくなるのだが、どうだろうか。
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