またまたアートマーケットのお話です。
日本のアートマーケットをめぐっては「反便所藝術宣言」[★1]反便所藝術宣言
http://hanapusa.com/text/essay/anti_toilette_art.htmlというテキストを書きました。なかなか好評を頂き、ミヅマアートギャラリーの三潴末雄さんから、「続編を期待!」というコメントまで頂いたのですが、宣言の続編とはどういうものなのか?と長考に入っておりました。でも、たまにツイッターでマーケットについては書いています。
さて、最近、ガールズアートーク[★2]ガールズアートーク
http://girlsartalk.com/
アートオタクな天使のスパルタ鑑賞塾~東京国立博物館編~
http://girlsartalk.com/feature/23626.htmlというウェブメディアとの付き合いがあって、あまり触れることのないアート界の情報を知ることが多くなっています。その流れでこんなギャラリー(アートサロン)ができることを知りました。
セーヌ(SCÈNE)[★3]森田恭通がデザインしたアートサロンが南青山にオープン “写真家”としてモノクロ写真の展示も
http://www.fashionsnap.com/news/2016-10-14/artsalon-scene/
このアートサロンについて以下のようにツイートしたところ、コレクターとして著名?であり、アートグループじゃぽにかの会長としても知られる武内竜一さん(以下、竜さん)が反応してくださいました。
これはギャラリーと言ってよいのだろうか???いいのか悪いのか。。。クラクラする😱
森田恭通がデザインしたアートサロンが南青山にオープン “写真家”としてモノクロ写真の展示も
https://twitter.com/fashionsnap— HANAFUSA Taichi (@hanapusa) 2016年12月28日
アートのある日常なんてないんだと幾年か前にみんなでたどり着き、非日常~と銘打ったのだが、全く持って浸透していなかったようで力のなさを痛感いたします。しかし95万ってベンチマークどこにあったんだろうかと、ただ単純に疑問だなぁ。ゴミになるのに95って>RT
— Ryuichi Takeuchi (@dragon1_) 2016年12月28日
竜さんが言っていることは正しいと思います。価格については、顧客のターゲットによって変化しますので、今日は触れないことにします。そもそも、アート作品の価格は極めてセンシティブな問題で、ギャラリーでの作品撮影はほとんどの場合OKですが、価格表(プライス・リスト)は撮影不可が一般的だと思います。
今日は、なぜアートが日常ではないのか?ということへの一つの答えを書いてみたいと思います。やや変化球での答えになりますが、日本では家の中で「靴を脱ぐ」からアートが日常的にならないのではないか、と考えてみてはどうでしょうか。
海外のドラマを見ていると分かるのですが、大金持ちのコレクターは、家の中にパーティースペースとして使える客間を持っています。リビングとしても使用されることもあるみたいですが、日本で生まれたLDKという呼称のどれにも当てはまらない場所だと思います。(ぼくがイメージしているのは「ゴシップ・ガール」[★4]ゴシップ・ガール
http://www.gossipgirl-tv.jp/index.htmlのヴァンダーウッドセン家です。)日本ではこうしたスペースのある家はとても少ないでしょう。そして、そこにアート作品がたくさん飾ってあります。
これは不思議な場所ですね。日本人からはなかなか理解しづらい。竜さんの言葉で言い換えれば、日常とも非日常ともつかぬ場所です。自分の家なのだから、日常の場所ですが、パーティー会場にもなるのだからそこは常に他者の気配があるはずです。そして、その日常とも非日常ともつかない場所にアート作品が飾られていることに、共感を覚えるコレクターは多いと思います。半分は自分のために購入するのだけれど、半分は(大文字も小文字も含めた)他者のために購入する。それがアート・コレクションと呼ばれるものであるように思うのです。
考えてみれば、靴を脱いでアート作品を観賞することは珍しいことです。美術館やギャラリーの入り口で靴を脱ぐことはめったにありません。日本においてアートマーケットを考える際にはこの「靴を脱ぐ」という行為を考慮に入れなければならないのではないでしょうか。
ここで、制作の場所にも目を向けてみましょう。アーティストの多くはアトリエと呼ばれる場所を持っています。自宅で制作する作家でも家の中にアトリエと呼ぶ場所を持っていることが多いでしょう。そして、たいていの場合、アトリエは靴を履いたまま使われていると思います。大学のアトリエも、ぼくが知ってる限り、すべて靴を履いたまま使用するように作られています。
しかし、明治期の東京美術学校(現在の東京藝術大学)では、アトリエは畳敷きだったらしいのです。[★5]『九鬼周造自筆集』(1991年、岩波文庫、p.12)
岡倉氏はわたしを美術学校へ連れて行ってくれたこともある。非常に広い畳敷の部屋で生徒があちこちに座って画を描いていた。
(九鬼周造「根岸」)
なるほど、広い畳敷きの「広間」と呼ばれる場所は、家の中にあるパーティー会場のようなものです。そこでは靴を脱ぎますが、日常と非日常の中間に位置する場所でしょう。広間で描かれた「洋画」は靴を脱いで観賞するようにできている。なぜなら、靴を脱いで描かれたのだから。そんなことを言ってみたくなります。
一方、最近のアーティストが作成する「現代アート」は靴を履いて制作されている。だから、靴を履いたまま観賞するようにできている。だとすれば、いまでも靴を脱いで生活する日本人の家に、日常的に「現代アート」が入り込む隙はないことになるのです。そういうわけで、未だに日本画や洋画がコレクションとして人気があるのだという仮説が出てきます
冒頭の話に戻りましょう。最初に触れたアートサロン「セーヌ」の内装はまるでヴァンダーウッドセン家のようです。明らかに西洋のパーティー会場を意識した作りになっています。少なくとも多くの日本人にとって、その場所は非日常に見えるでしょう。しかし、一部の高所得者にとっては、日常なのだと思います。セーヌはこの層をターゲットにしているのでしょう。だから、マーケティングとしては正しい。
しかし、多くの日本人は家に帰ると、高いハイヒールや硬い革靴を脱ぎ捨てます。そこにはどんな作品が飾られるのでしょうか。畳の上で制作された洋画が飾られるべき、広間のある家はほとんどなくなってしまいました。ぼくたちは厚めの靴下を履いて、冷たいフローリングの日常をやり過ごしています。
ハイヒールでも裸足でもない日常。それを「靴下の日常」と呼びましょう。では、靴下の日常にぴったりのアート作品はどのようなものでしょうか。
References
↑1 | 反便所藝術宣言 http://hanapusa.com/text/essay/anti_toilette_art.html |
---|---|
↑2 | ガールズアートーク http://girlsartalk.com/ アートオタクな天使のスパルタ鑑賞塾~東京国立博物館編~ http://girlsartalk.com/feature/23626.html |
↑3 | 森田恭通がデザインしたアートサロンが南青山にオープン “写真家”としてモノクロ写真の展示も http://www.fashionsnap.com/news/2016-10-14/artsalon-scene/ |
↑4 | ゴシップ・ガール http://www.gossipgirl-tv.jp/index.html |
↑5 | 『九鬼周造自筆集』(1991年、岩波文庫、p.12) |