自由の国-現代版 “Country of freedom-modern version“(2015, VOILLD, 東京)に寄せたテキストを転載します。


私たちはみな、幸せになりたい。幸せになるために、生きている。そして、幸せに生きるべきだ。
よって、彼らもまた、幸せになるべきである。

「自由の国-現代版」に参加する3名のアーティストの幸せとはどのようなものだろうか。タイトル通りに受け取れば、彼らの作品の中から、「自由の国-現代版」の内情をうかがい知れるはずだ。

まず、六本木百合香の過去作から見てみよう。「生理シリーズ」では、中央下部に大きく口を開けた獣が描かれる。獣は吐血している。一見して、獣の口が陰部を表していることが明らかだ。この獣の攻撃対象に鑑賞者である私たちが含まれていることもまた明らかだ。まずは、獣の攻撃に身を晒そう。しかし、あるとき私たちは気づく。獣の攻撃対象には彼女自身も含まれていると。彼女は定期的に訪れる圧倒的他者に身を任せながら、髪の毛を蛇や鳥に変えて、必死で対抗しているのだ。圧倒的他者とは、すなわち私の身体である。

西川昇真の作品には、過剰に装飾された空想の動物が多く登場する。人間は動物を劣位の生物として扱うと同時に、超越的な存在としても扱ってきた。ときに弄ぶために、ときに崇めるために動物に装飾を施してきた。ところが、西川の作品に描かれた動物たちは、私たちと目を合わせな い。彼らは人間のために、装飾されているのではない。みずからの手で改造された肉体を見て、恍惚としているのである。彼らは、装飾によってはじめて現れる身体に、静かに耳を済ませている。加えて、西川の作品には性的な造形が多く含まれるにも関わらず、周到に性器の直接的描写が 避けられていることを確認しておこう。

林千歩は、直接的な表現でみずから動物になる。あるときは鳥に、あるときはかたつむりに、あるときは架空の生き物に変身する。あまりに直接的な表現であるために、私たちは彼女の作品の中に意味を読み取ろうとしてしまうが、その行為はいつも裏切られる。彼女は私たちに意味づけられることをこそ拒否しているのだ。彼女はみずからの変身を見せびらかしたい。誰かを暴力的 に変身させて、その姿を凝視していたい。そこに、私たちの欲望が入り込む余地はまったくない。彼女の欲望は満たされている最中だ。無数の生物たちが、彼女の穴という穴を塞いでいる。

これが「自由の国-現代版」の諸相である。そこで、私は、動物的な他者として現れ、改造された動物の姿に変態し、動物と交わる。この国で、私たちは不幸である。彼らもまた不幸になるだろう。他者の暴力に拘束され、違和感の残る身体を引きずりながら、絶頂だけが持続する動物との セックスの苦痛に溺れる。これが、彼らが求める「自由の国-現代版」である。

私たちは、彼らを非難したり、哀れんだりする必要はない。ただ、彼らは、正しく不幸になりたいのだ。それで良いではないか。彼らはただ、不幸になる自由を享受しているだけなのだ。

「自由の国-現代版」の憲法には以下の文言がある。
不幸追及の自由は、これを侵してはならない。

花房太一 / Art Critic